歴史
天正15年(1587) に起こった、いわゆる「肥後国衆一揆」の舞台となった城です。
戦いの様子は、平成元年に、山口県文書館で発見された『辺春(へばる)・和仁仕寄(わにしより)陣取図』によりはっきりしました。豊臣秀吉軍は、小早川秀包(ひでかね)・安国寺恵瓊など毛利勢のほか立花氏や鍋島氏など九州の豪族との連合軍、約1万人で二重の柵を設け、城を取り囲み、兵糧攻めを行っています。対する和仁軍は、和仁3兄弟(親実(ちかざね)・親範(ちかのり)・親宗(ちかむね))のほか姉婿の辺春親行など数百から千名程度と伝えられています。このような状況の中、36日間の籠城後、辺春氏の裏切りで天正15年12月5日に落城してしまいました(『柚留木(ゆるぎ)文書』)。
今ではこのような激しい戦いがあったことは、全く想像できませんが、周囲の山々には攻め手の陣屋が作られ、陣旗が靡いていたことでしょう。陣取図には、方位や城と各陣との距離が書かれていますので、大凡の配置が想像できます。
田中城の東側の水田の中を流れる小田川は、戦いの際に流された血で真っ赤に染まった水が何日間も流れていたといわれ、別名『血波(ちなみ)川』とも呼ばれています。また、秀吉は、この一揆を平定した翌天正16年には『刀狩令』を出し、兵農分離を進めていくことになります。<現地案内板より>
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オススメ ☆☆☆
難易度 ☆☆
アクセス ☆☆☆☆
データ
- 所在地
- 熊本県玉名郡和水町和仁字古城通称
- 通称
- 和仁城、舞鶴城
- 形式
- 輪郭式平山城(標高 104m/比高 50m)
- 遺構
- 曲輪、堀切、空掘、井戸
- 築城者
- 不明(古代豪族和邇氏末裔?)
- 主要城主
- 和仁氏
- 築城年
- 不明(南北朝以前)
- 廃城年
- 天正15年(1587)
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- 無料駐車場あり
- アクセス
- 西鉄大牟田線『大牟田駅』より12.6km(車で21分)
- 九州自動車道『南開IC』より7.2km(車で12分)