新宮城(別名:丹鶴城)は、関ヶ原合戦の後、和歌山城主となった浅野幸長の家臣・浅野忠吉が新宮領を与えられて、慶長6年(1601)に築城を開始した城である。元和元年(1615)の一国一城令で一旦廃城となるが、同4年に再建を許され、再び築城が始まる。
元和5年(1619)、浅野氏に代わり徳川家康の10男・頼宣が紀州に入国し、同時に頼宣の付家老として、新宮に水野重仲が入った。重仲は忠吉の築城工事を継続し、寛永10年(1633)、城は完成をみる。以後、明治の廃藩置県により廃城となるまで紀州藩新宮領支配の中枢として機能した。
~構造~
この城は、独立丘陵上にあり、東の最高所に『本丸』と『天守台』が、その西方に『鐘ノ丸』と『松ノ丸』が配置される。本丸の北には『出丸』があり、熊野川の河口、上流方向が見通せる。
熊野川岸の『水ノ手』には、船着場と一万俵余の炭が収納できる大規模な炭納屋が設けられ、熊野川流域の備長炭を集積し、江戸などへ出荷する拠点となっていた。
また、隣接の現在保育園となっている場所は『二ノ丸』といい、領国支配の行政機関があった。登城の為の『大手道』は、二ノ丸の北側(市民会館横)に入口があるが、今は建ち並ぶ民家で塞がれ入る事は出来ない。現在地からこの階段を登ると、途中で元の大手道に繋がり、松ノ丸に至る。<現地案内板より>