京都府埋蔵文化財調査研究センターは21日、豊臣秀吉が造った城郭式の公邸・聚楽第(じゅらくだい)跡(京都市上京区)で、本丸の石垣とみられる遺構を長さ32メートルにわたり確認したと発表した。
秀吉によって跡形なく壊されたと考えられていた大邸宅の存在を示す発見で、同センターは「まだ遺構の多くが残っている可能性がある」としている。
聚楽第は1587年、秀吉が政務を執るため平安宮・大内裏(だいだいり)跡に造営。広大な敷地の周りに堀が巡らされ、大量の金箔(きんぱく)瓦が用いられたと伝わる。跡継ぎとなった甥(おい)の秀次に譲り渡されたが、秀吉に嫡男・秀頼が誕生すると、秀次は謀反の疑いをかけられ切腹。聚楽第も95年に徹底的に破壊され、遺構は残っていないと考えられていた。
調査では、自然石を積み上げた東西方向の石垣(最高約2・3メートル)を確認。東に向かうにつれて大きな石を積んでいた。当時、城郭の門に接する石垣には見栄えを意識して巨石を用いる例があり、近くに本丸正面の門があったとみられる。
(2012年12月21日(金) 読売新聞記事より)