歴史
九鹿城は小佐川左岸、北側から九鹿集落に延びる尾根の突端、標高131mに所在する。城域は東西約60m、南北約240mを測り、城の末端には九鹿地区の氏神である日枝神社が鎮座する。集落との比高は約60mある。
鎌倉末期の弘安8年(1285)には、小佐郷(小佐川流域の全部)は尾張入道・伊達五郎三郎・阿波孫五郎・安原兵衛入道の4人に分領されていた。南北朝期には、小佐郷二分方(山田方=九鹿付近か)の所領をめぐって、立石五郎入道法阿と伊達貞綱・義綱父子が争っている(『南禅寺文書』)。
伊達氏の所領支配は不安定であったようで、度々北朝方の今川頼貞(但馬守護)に二分方の所領安堵を要求している。建武5年(1338)4月には伊達義綱が二分方(山田方)地頭職を没収されて立石五郎入道法阿に与えられたことを不服として、守護桃井盛義に訴えている。また暦応元年(1338)11月には、立石法阿の領有する二分方(山田方)地頭職の返付を幕府に要求している。しかし暦応4年(1341)12月には、逆に立石法阿が伊達貞綱・義綱の悲法(地頭職強奪)を幕府に訴え、所領安堵を申し出ている。この「立石五郎入道法阿申状」には、伊達父子が二分方地頭職を兢望して自国・他国の「悪党」らと相語らい、小佐郷に打入って「城郭」を構え、狼藉に及び、その上子細を糾明しようとした守護代官糟屋弾正左衛門の手勢と合戦したことを記している。貞治元年(1362)11月には将軍足利義詮が二分方両方(津村・山田)の地頭職を安堵していることから、両者の抗争の中で、伊達氏の沖田城や立石氏の九鹿城が築城されたと宿南保氏は指摘している。従って宿南説では九鹿城主は立石氏となるが、戦国期の城主については不明である。しかし長禄3年(1459)の文書(恒富荘主良孝名主職宛行状『日光院文書』兵庫県史・史料編・中世三)に「黒口(九鹿)村水垣与二郎」の記録があり、水垣氏を候補の一人に考えておく。<図説養父市城郭事典より>
コメント
駐車場はなしということで、龍蔵寺の前に路駐させていただきました。小佐側から来たのでここから2~300m先に歩くと日枝神社があり、ここから登城開始です。境内裏を左に進み道なりに行くと、駐車した龍蔵寺後方数十メートルの所に出て戻ってくる事が出来ます。今回のルートを逆で行くと龍蔵寺側に駐車出来そうなスペースがありましたが、やはりまずいでしょうかね?どーも路駐してるとゆっくり散策出来ません…今回は時期も時期なので下見程度です、近いのでまた近いうちにと思いつつ、いつになるのやらのパターンです(笑)
オススメ ☆☆
難易度 ☆☆☆
アクセス ☆☆☆☆
データ
- 所在地
- 兵庫県養父市八鹿町九鹿
- 通称
- ─
- 形式
- 山城 (標高 131m、比高 約60m)
- 遺構
- 曲輪、土塁、堀
- 築城者
- 伊達貞綱
- 主要城主
- 伊達氏
- 築城年
- 南北朝時代
- 廃城年
- 不明
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- なし
- アクセス
- JR山陰本線『八鹿駅』より バス