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日本お城めぐりの旅

八代城YASHIRO CASTLE


歴史

1、位置と城史
 八代城は円山川支流の八代川左岸、谷集落と奈佐路集落に挟まれた、標高179mの独立丘陵に所在する。城域は東西約460m、南北約440mを測り、八代荘域における最大規模の城郭である。集落との比高は約159mを測る。
 城主は藤井左京と伝承されているが(「但州一覧集」)、詳細は不明である。筆者は、次に記すような歴史的経緯から八代氏が城主ではないか、と推定している。
 八代荘には、承久3年(1221)の承久の乱まで在地の八代氏が勢力を張っていた。この乱に際して八代氏は鎌倉方に与同したものと思われ、八代荘公文として所領安堵されている。しかし承久の乱後八代荘には、関東御家人である武蔵国小川氏の一族・小河宗祐が地頭として入部する。鎌倉末期には安養院田を巡って八代氏と小河氏が争っているが、院宣並びに武家方から和与状が出され、地頭小河氏が敗訴し、公文八代氏が安養院田の下地支配権を確立している(「徳禅寺文書」)。このような八代荘を巡る八代氏と小河氏の抗争は鎌倉期を通じて行われたものと考えられ、南北朝期までには八代氏の支配権が確立したようである。なお弘安8年(1285)の「但馬太田文」には、「八代荘地頭小河左衛門六郎宗祐、公文八代右近入道善阿」と記載されている。
 鎌倉幕府崩壊期には、八代荘公文8代治真が闕所となった安養寺(跡地は不明)の再興を徳禅寺に願い出ている。建武2年(1335)11月には、八代宗真が安養寺田と寺伝の年貢20石を徹翁(大徳寺二世の徹翁義亭禅師)に寄進し、大徳寺による安養寺再興が図られた。また同年11月には、八代宗真が「安養寺田下地所当注文」を徹翁に提出している(「徳禅寺文書」)。この注文には小字名・地積・年貢・作人などが記載されているが、八代氏が1~2反を耕作する作人を使役していたことが判明する。
 延元元年(1356)6月・8月には、北朝軍(今川頼貞・伊達真信ら)が南朝方の八代城を攻撃している(伊達真信軍忠状「伊達文書」)。
 貞治3年(1364)6月、八代右京亮真員は□貞名穴ウ谷の坪2段の内1段の田地を修造の料足として大岡寺に寄進している(「大岡寺文書」)。同じく貞治年間(1362~67)には、播磨国大部荘に乱入した悪党の中に、八代彦太郎の名が見える。(「東大寺文書」)。
 応永3年(1396)6月、大岡寺は所領安堵の申請をする為、但馬守護山名時熙に「大岡寺寺領注文状」を提出しているが、その中に「八代、河寺両所」三反の寄進者として八代右京亮の名が見える。文安4年(1447)8月には、八代宗祥が2反の田地からあがる分米8斗の収益権を大岡寺に寄進している。また、永正5年(1508)11月、大岡寺が但馬守護山名致豊に提出した「大岡寺寺領散在田畠注進状」には、新たに山名氏の有力家臣太田垣通泰や垣屋修理進の寄進を受けており、八代氏関係では新たに八代荘舟谷を寄進した八代右京亮、八代宗祥の名がみえる(「大岡寺文書」)。
 これらの史料から八代氏は、八代善阿(弘安8・1285)→八代治真(鎌倉末期)→八代宗真(建武2~4・1335~37)→八代右京祐真員(貞治3・1364)→八代彦太郎(貞治年間・1362~67)→八代右京亮(応永3・1396)→八代宗祥(文安4・1447)→八代右京亮・八代宗祥(永正5・1508)と確認でき、鎌倉末期から戦国初頭まで存続している。また八代氏は、南北朝期から戦国期にかけて大岡寺や安養寺の最大の外護者でもあった。

2、城の構造
 八代城の城域は広く、縄張りの大きく異なる「北城」と「南城」に分かれる。
[北城]
 八代城は、山頂に位置する広い主郭部を、段差の大きな帯曲輪で囲繞し、三方の尾根に規模の大きな堀切・竪堀、要所に竪堀を構築した縄張りである。
 主郭1は東西25m・南北45mを測り、北西隅に土塁囲みの一画(15×10m)を設けている。土塁は幅2.5~2.9m・高さ0.5~0.7mを測る。
主郭1東側約2.5m下に曲輪2(11×12.5m)があるが、これは主郭の一部と看做す事ができよう。
 主郭部から約7~8mの段差をもって、曲輪3(24.5×20m)・曲輪5(幅6~9m)・曲輪7(幅9~16m)・曲輪8(20×24.5m)から成る帯曲輪を構築し、更にその斜面に竪堀を設けることによって、主郭部の防禦を一層強固なものにしている。竪堀ウは幅3.5m・長さ23m、竪堀エは幅6m・長さ22m、竪堀サは幅6m・長さ38mを測る。堀切Bは深さ1mもない浅いものである。
 曲輪3の西側には、曲輪4(17×12m)とやや離れた所に堀切・竪堀を構築している。堀切Aは幅5m・深さ4m、竪堀アは幅4.5m・長さ14m、竪堀イは幅4.5m・長さ20mを測る。
 曲輪2の東側尾根には、曲輪6(12×13.5m)と二重の堀切・竪堀が構築されている。堀切Cは幅3m・深さ1m、竪堀オは幅3m・長さ19m、竪堀カは幅3m・長さ8mを測る。またm堀切Dは幅4m・深さ3.5m、竪堀キは幅3m・長さ13m、竪堀クは幅3m・長さ15mを測る。
 帯曲輪周辺には曲輪9(10×7m)・曲輪10(15×10)・曲輪11(幅6~7m)等の曲輪であるが、何れも規模が小さく、主郭部と帯曲輪構築以前の曲輪群であろう。
 曲輪8の南側には、深い堀切・竪堀と竪堀が構築されている。堀切Eは幅9m・深さ約9~10m、竪堀ケは幅3m・長さ15m、竪堀コは幅7m・長さ38m、竪堀シは幅3.7m・長さ20mを測る。
 更に堀切Eの南側尾根には、5段程の切岸の甘い曲輪と堀切F(幅8.2m・深さ2.5m)を設けている。曲輪12は9×19m、曲輪13は6×26m、曲輪14は8×40m、曲輪15は15×8mを測る。

[南城]
 南城は標高124mに位置する曲輪を中心にして、3方向に延びる尾根に曲輪群を配置しているが、何れも曲輪の削平が甘く自然地形を残すものが多く、堀切も深さ1mにも満たない。しかし、曲輪16(11×14.5m)は小規模であるが削平もしっかりしており、堀切Gは幅8m・深さ2mと比較的規模が大きい。

3、まとめ
 これまでのところ管見では、「八代氏が八代城の城主である」という文献的な裏付けは見出せないが、八代氏が鎌倉末期から戦国初期まで八代荘に盤踞していたことを考えると、八代荘内の中心的な大規模城郭の城主を八代氏と特定することも可能であろう。伝承では藤井左京が城主となっているが、戦国末期に至り城主の交替が行われたのかも知れない。
 前述したように、城の縄張りは南城と北城とでは大きく異なる。南城は南北朝期、北城は戦国期の様相をしている。また北城でも、掘切E以南や主郭周辺部の小規模な曲輪群は古い要素をもっている。従って八代城は南北朝期に築城起源を有し、戦国初期に主郭と帯曲輪による改修が行われ、更に戦国末期に堀切・竪掘や竪掘、主郭土塁等に依って補強・改修されたものと思われる。
 城は位置的に、岩井谷(旧豊岡市)からのルートと椒(竹野町)・奈佐谷(旧豊岡市)からのルートが交錯する交通の要衝にあたる。竪掘の使い方から考えると、戦国末期には竹野轟城主・垣屋豊続の支城として組み込まれ、交通の要衝を押さえる重要拠点として大改修されたのではなかろうか。<豊岡市の城郭集成Ⅱより>


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データ

所在地
兵庫県豊岡市日高町八代字城山
通称
形式
山城 (標高 179m/比高 159m)
遺構
曲輪、土塁、堀切、竪掘
築城者
不明
主要城主
藤井左京?、八代氏?
築城年
南北朝期?
廃城年
不明
開城時間
常時
入城料
無料
休城日
なし
駐車場
未確認
アクセス
JR山陰本線『国府駅』より
北近畿豊岡自動車道『日高神鍋高原IC』より 

日本100名城
現存12天守
番外編

個人データ
初登城日:未 踏
最終登城日:未 踏