歴史
位置と城史
豊岡城は円山川左岸、京町の南側、標高約49mの「神武山」に所在する。位置的には、豊岡盆地の西端にあたる。京町との比高は約42mを測る。城域は東西約430m、南北約160mを測る。
鎌倉時代の『但馬太田文』(弘安8年・1285)によると、豊岡町域は「長講堂領城崎庄七拾四丁六反」となっており、地頭は南部太郎次郎入道行蓮であった。城崎庄は、旧豊岡町の佐野・九日市・戸牧・大磯・小尾崎・豊岡・野田・新屋敷・一日市・六地蔵・下陰・中陰・上陰・高屋・正法寺を含む範囲であったという。
この城崎庄域に木崎城がいつ頃築城されたのかは、明らかではない。「木崎城」の文献的初見は、長享2年9月の『蔭涼軒日録』である。『蔭涼軒日録』によると、但馬守護山名政豊が播磨攻めに失敗して帰但した際、あくまで播磨進攻を主張する垣屋氏を筆頭とする26人の国人らが政豊を廃し、備後守護山名俊豊を擁立しようとして、政豊・田公肥後守の立籠る木崎城を包囲している。また「木崎城は田公新左衛門が築城した」とも記されている。
木崎城の所在地については、『豊岡市史・上巻』・『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』・『但馬の城』の中でも不明とされてきた。『豊岡市史・上巻』では木崎城は「神武山から正法寺のあった山王山一帯」に所在したといい、『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』では豊岡城と木崎城とを別扱いしている。しかし、『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』の中の木崎城の項には、「『柴田退治記』『太閤記』に「木崎城主木下佐人兵衛尉」の名が見える。木下は羽柴秀吉の部将で、宮部善祥坊のあとに豊岡城主となった人物である。そうすれば、この木崎城は豊岡城を示すことになる。」として、豊岡城の前身が木崎城である可能性を指摘している。
平成4年(1992)春の豊岡城の調査で、主郭南側斜面に3本の堅堀(畝状堅堀)が確認された。この畝状堅堀は従来の曲輪や堀切で縄張りされた城郭を補強する為に、天正の初め頃造られたものである。したがって、この堅堀の発見によって、中世城郭の遺構を残す豊岡城の存在が明らかとなった。前述の『柴田退治記』の記載と合わせて考えれば、豊岡城の前身は木崎城であった事が判明しよう。
天正3年(1575)の野田合戦(鶴城主・田結庄是義と
轟城主・垣屋豊続との争い)以後、豊岡地域は垣屋豊続の支配が及んだものと推察され、木崎城も竹野轟城の支城網に組み込まれたものと思われる。
「豊岡城」の初見は、慶長13年(1608)の『杉原伯耆守の奉書』に「但馬国豊岡城主」と記されているという(『目で見る豊岡の文化史』)。しかし、『豊岡細見抄』に記す「宮部継潤地子免状写」(天正10年・1582)には「豊岡町」「豊岡中」という名称が使用されている。したがって、羽柴秀長の第2次但馬進攻以後、豊岡城主となった宮部継潤によって「木崎(城)」が「豊岡(城)」と名称変更されたことは間違いなかろう。
豊岡城主は、宮部継潤の後、木下助兵衛尉(天正10年・1582、受封)、尾藤久右衛門知定(天正12年・1584、受封)、明石左近則実(天正14年・1586、受封)、福原右馬助直高(文禄4年・1595、受封)と続き、慶長2年(1597)には杉原伯耆守長房が受封した。杉原氏は、承応2年(1653)に断然するまで続いた。宮部氏から杉原氏までの時代(天正8年~承応2年)には、豊岡城と居館がセットで存在し、居館は京極陣屋と同じ位置にあったものと思われる。~以下省略~<豊岡市の城郭集成Ⅰより>
コメント
オススメ ☆☆
規 模 ☆☆☆
難易度 ☆☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 兵庫県豊岡市京町
- 通称
- 亀城、城崎城
- 形式
- 山城(標高 48.7m、比高 約42m)
- 遺構
- 曲輪、堀切、堅堀
- 築城者
- 山名持豊(宗全)
- 主要城主
- 杉原長房
- 築城年
- 15世紀中頃
- 廃城年
- 承応2年(1653)
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- なし (市立図書館の駐車場を借用)
- アクセス
- JR山陰本線『豊岡駅』より 徒歩15分
- 北近畿豊岡自動車道『但馬空港IC』より5.2km(車で約10分)