| 1、位置と城史 九日市城の所在地は不明確であるが、九日市には「御屋敷」「丁崎」という地名がある。「御屋敷」は山名時義の居所と伝え、「丁崎」は「庁先」の事で但馬守護が事務を執った居館跡に関係する場所ではないか、とされている。また、「御屋敷」の一角に、山名時義の娘を母とする日蓮宗の日真上人(法華宗本隆派開祖)の誕生井戸と称する遺構があること、「御屋敷」北端に日真が少年期を過ごした妙境寺(妙経寺)があり、山名氏菩提寺の金胎寺の後身と伝えられている事、などが傍証となる(『豊岡市史・上巻』『兵庫県の地名T』)。 正平9年(1354)10月11日、南朝方の石堂頼房が伊達三郎蔵人(朝綱)に対し、丹波攻撃のため南朝方の中国勢が「九日市庭」に到着したので、宿南の陣(宿南城)に馳せ寄せるよう命じている(石堂頼房軍勢催促状『伊達家文書』)。また同年10月26日には、南朝方の山名時氏が伊達孫三郎(貞綱)に対して、足利直冬の京都攻撃軍として出陣するよう命じている(山名時氏書状『伊達家文書』)。このころ時氏の拠点が「九日市庭」にあり、南朝軍の京都攻撃の軍勢集結地(中継地)として利用されている事が分かる。 康応元年(1389)3月、時義は将軍義満の命に背き但馬に在住しているが、「城崎住」と記されている(『南方紀伝』)。 明徳の乱の前年の明徳2年(1391)には、妙楽寺城に立籠もる時長・弟時熙・氏幸を氏清・満幸が攻め、城を陥落させている(『妙楽寺文書』)。 享徳3年(1454)、山名持豊は播磨赤松氏の再興問題に関連して将軍足利義政の怒りをかって京都から追放され、長禄2年(1458)までの4年間但馬に在国している(『嘉吉記』)。享徳3年11月持豊の但馬退居に同行した連歌師宗砌は但馬九日市で持豊から安堵状を受けている(山内泰通覚書『山内首藤家文書』)。また康正2年10月には、「城崎郡居住」の持豊は、建仁寺霊源院の瑞岩龍惺を招いて亡母の17回忌を「西光精舎」(西光寺)で行なっている。(『蝉庵稿』)。 文明3年(1471)3月、山名一族でありながら東軍(細川方)に与同した山名是豊の子・頼忠が「但馬国九日面」へ乱入したが、九日市を守る垣屋宗忠の子・平右衛門に撃退されている。(『応仁別記』)。 長享2年(1488)8月、政豊は赤松攻めに失敗して播磨から撤退し、僅かに田公豊高父子とその寄子・馬廻衆10人ばかりを連れただけで「九日」に帰っている。同年9月には、飽くまで播磨侵攻を主張する垣屋を筆頭とする26人の国人衆が、政豊を廃し、備後守護山名俊豊を擁立しようとして、政豊・田公肥後守(豊高)の立籠もる木崎城を包囲している(『蔭凉軒日録』)。 延徳3年(1491)8月には、政豊は「九日」に住している(『大乗院寺社雑事記』)。 以上から、文献的には時氏から政豊まで(1354〜1491)の居所は「九日市(場)」であり、そこに守護所が置かれていたことが考えられる。政豊以降、山名氏の居所としては九日市は文献的に登場しなくなり、替わって此隅山城が現れてくる。 2、城の構造 九日市の集落の中で守護所と考えられている所は、地籍図から判断すると字「御屋敷」地区である。伝承でも、そこに山名氏の居館があった事を伝えている。字「御屋敷」と「下畑」の微地形は周辺の地形よりも一段高い自然堤防となっており、字「御屋敷」と「下畑」地区に守護所(九日市城)を想定できよう。九日市城の規模は200×150m程度の方形居館が考えられ、各地の守護所の事例から、周囲を堀と土塁で囲繞されていたことが想定される。 3、まとめ 守護所(九日市城)周辺には、城下町は想定できるのだろうか。山名氏が九日市場に守護所を設けた経緯かを考えてみると、南北朝以前からある程度発展していた九日市場を経済的に支配・利用する為に、其処に守護所を設置したことが考えられる。「青屋」「染屋河原」「下市河原」等の地名からは職人や市店が想定でき、また地籍図を見ると南北に延びる一本街路に沿って短冊形地割も見られるので、守護所の南北にある程度の町屋の存在が想定される。永徳2年(1382)には、紀州熊野権大僧都覚有が熊野神社の旦那(信者)を諸弟に配置(売買)した「一跡配分目録」の中に「同(但馬)国」九日市場金屋入道引旦那、同所絹屋入道一門」が含まれている(『熊野那智大社文書』)。九日市場には、当時金物や絹織物を扱う商人の存在が明らかであるが、武家屋敷を想定できるような地割や地名は確認できない。 ところで、『豊岡市史』によると、山名氏は「戦時には此隅山城を本城としつつ、平時には九日市の居館を守護の在所と定めて政務の中心とした」としているが、九日市城(守護所)の詰城はどこであろうか。此れ迄の史料からは、明徳2年の山名氏の内紛において時熙らが妙楽寺城に立籠もっているので、妙楽寺城が詰城であったであろう。また長享2年には政豊が木崎城に立籠もっていることを考えると、木崎城もその候補となろう。また九日市城の対岸ではあるが、曾て南朝方に属していた時氏が立籠もっていた三開山城も詰城かもしれない。出石の此隅山城は南北朝期に築城起源をもつ城であり、出石神社の祭祀権を掌握して地域支配を図る為には位置的に不可欠の城であろう。そのように考えると、守護所(九日市城)の詰め城は妙楽寺城・木崎城・三開山城、更には此隅山城などが城郭群で構築されていたものと思われる。<豊岡市の城郭集成Tより> |