歴史
1、位置と城史
加陽城は円山川支流出石川左岸、中筋丘陵北端の尾根突端に所在し、集落との比高は約40mある。城域は東西約160m・南北約160mを測る。
城主は加陽氏と思われる。南北朝期の貞和年間(1345~50)、但馬・播磨の悪党らが播磨国の東大寺領大部荘(現小野市)に乱入した中に、播磨守護代・安保直実(軽部荘地頭)らと共に加陽彦太郎・加陽太郎三郎の名がみえる(『東大寺文書』)。また、天文4年(1535)5月、山名祐豊が奉納した総持寺本尊(十一面観世音菩薩)の胎内文書(奉加帳)の中に、「加陽豊後守」の名がみえる。現段階では、室町期の加陽氏に関する記録はないが、加陽氏は南北朝期から戦国期まで存続していた可能性がある。
2、城の構造
加陽城は主郭1(14.5m×52m)と曲輪2(39m×75m)を中心として、2方向に延びる尾根に階段状に曲輪を配置しているが、最大の特徴は、主郭南側(背後)の尾根を切断する大規模な2条の堀切・竪堀と其れに対応する大規模な土塁(幅約6m、高さ約4.5m)である。
特に、主郭に近い方の堀切は大規模で深さ9~10mを測り、折れをもつ竪堀は最大で約90mもある。また主郭から西に延びる尾根には、曲輪5(17×16m)・曲輪6(20×14m)を配している。竪堀・横堀・土塁による改修が顕著に見られる。
3、まとめ
城の築城時期は、小曲輪群の存在から南北朝期に起源をもち、室町期に曲輪を中心に改修し、更に戦国末期に大規模な堀切・竪堀や横堀・土塁等で改修したものと推察される。
位置的には加陽城は、円山川と出石川の合流点を押さえる要所にあり、加陽氏がその役割を担っていた事が想定される。<豊岡市の城郭集成Ⅰより>
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データ
- 所在地
- 兵庫県豊岡市加陽小字大市山
- 通称
- ─
- 形式
- 山城 (標高 47.8m、比高 40m)
- 遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀、横堀
- 築城者
- 不明
- 主要城主
- 加陽氏
- 築城年
- 南北朝期
- 廃城年
- 不明
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- 有 (五条大橋渡ってすぐ左折した駐車スペース、中山神社駐車場)
- アクセス
- JR山陰本線『豊岡駅』より 自動車で約20分