歴史
1、位置と城史
賀嶋城は竹野川の河口北側、竹野の町から北方向に砂洲が延び、陸繋島の「島」となっている標高52.2mの独立丘陵に所在する。現在、主郭には五所神社が鎮座している。比高は約52mを測り、城域は東西約35m、南北約70mを測る。城主や城史に関する伝承は不明である。
2、城の構造
賀嶋城は、土塁で囲繞された粗単郭の城郭である。城は尾根を堀切・竪堀で切断し、その前面(南側)に城域を設定している。堀切は幅8m・深さ1.5m、竪堀は幅3.5~4m・長さ11~13mを測る。
主郭1は東西約25m、南北約44mを測り、尾根を掘り込んで曲輪造成をしている様である。西~南側にかけて「折れ」をもつ土塁を巡らせている。土塁は幅約4~5.5m・高さ約1~1.5mを測り、土塁の南端は曲輪状の平坦面となっている。土塁の痕跡は東側にもあり、本来は土塁が全周していたものと思われる。主郭の東側斜面には、約3mの段差をもって幅4~6mの帯曲輪を設けている。また、南から土塁の間を入る現在の進入路は本来坂虎口で、曲輪2(30×19m)は虎口受けであったものと思われる。
3、まとめ
単郭の城を土塁で囲み、堀切・竪堀を使用する縄張りは、戦国末期の様相を呈しており、竹野地域では特異な城である。
天正8年(1580)5月、吉川元春が都野越中守・弥四郎父子に送った書状の中に、「鹿島の儀、普請彼是相調え油断無く候由、肝心此の事に候」とあり、鹿島(城)が竹野における毛利方の拠点(陣城)として築城された事が判明する(吉川元春書状写『御書感状写』)。都野父子は天正7年(1579)10月頃から吉川元春の名代として但馬に出兵(常駐)し、奈佐日本助・垣屋豊続と共に対織田作戦を展開していた(吉川元春書状写『御書感状写』)。吉川元春は織田勢の攻勢に対して、天正7~8年にかけて竹野賀嶋城を但馬奪回作戦の橋頭堡としていたようである。<豊岡市の城郭集成Ⅰより>
コメント
オススメ ☆☆
規 模 ☆☆
難易度 ☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 兵庫県豊岡市竹野町竹野字賀嶋
- 通称
- ─
- 形式
- 山城 (標高 52.2m/比高 52m)
- 遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀
- 築城者
- 不明
- 主要城主
- 不明
- 築城年
- 不明
- 廃城年
- 不明
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- 有(無料/約15台)
- アクセス
- JR山陰本線『竹野駅』より2km(車で7分)
- 山陰近畿自動車道『香住IC』より21.0km(車で32分)
- 北近畿豊岡自動車道『日高神鍋高原IC』より32.1km(車で44分)