歴史
1、位置と城史
亀ヶ崎城は円山川支流の大浜川右岸、福田集落と森津集落の境、標高約66mの尾根突端に所在した。山裾との比高は約60mを測る。城域は推定で東西約160m、南北約40mを測る。昭和55年(1980)と昭和56年(1981)に、豊岡市清掃センター建設に伴って発掘調査が行われた。その後城跡は消滅している。しかし、平成13年(2001)市教育委員会の分布調査で、主郭から西へ直線距離で約250mほど離れた標高約84m地点に、新たな城郭遺構が存在することが判明した。城郭は更にに西方向に拡大することになった。
城主は垣屋重教・時忠父子であるという(『因幡垣屋氏系図』)。
~以下中略~
垣屋氏は平氏の出で、重教のとき上野国から山名時氏に従って但馬に入ってきた。その時期は、時氏が康永3年(1344)2月、
三開山城の南軍を討ち、そこを居城として但馬守護を僭称した頃(『妙楽寺文書』)であろうという。その後、垣屋氏は但馬の南北朝争乱が事実上終結した正平18年(1363)~応安7年(1374)の頃、楽々前の地(日高町)に移ったものではなかろうか。
戦国期の城主は不明である。
2、城の構造
報告書によれば、亀ヶ城(Ⅰ地区)は「標高約60mの狭長な尾根上の北東~南西約110m間に構築されている。この間を大小数本の堀切で尾根を区切り、7ヶ所に曲輪らしきものが構築されているが、真に城郭的といえば土塁で囲まれた中央部の31.5m×15mの広さの曲輪だけで、其処には2間×3間程度の掘立(柱)建物が存在した。」と云う。
報告書の外形実測図や写真を見ると、古墳を削平した曲輪の北東側と南西側に可也深い堀切・竪堀を構築した縄張りであったようである。土塁の在り方ははっきり分からない。
発掘調査の現場を調査してみると、曲輪(主郭)が存在したと思われる標高66.2m付近に曲輪1(14×25m)・曲輪2(10×8m)と堀切・竪堀が残っているようである。曲輪1は南西縁に土塁状の高まりがある。また、北東側の堀切は幅5m・深さ約3m、竪堀は幅2~3m・長さ15mを測る。
曲輪3は15×15mを測るが、その北東側には明確な円墳が2基ある。更に北東側に進むと、飛び飛びに曲輪4(13.5×7.5m)と曲輪5(6.5×3.5m)を設けている。
新たに発見された城(Ⅱ地区)は標高84.3m地点に所在する。主郭は長軸25m・短軸12mを測り、南西側に低い土塁(幅約2m・高さ0.4m)を構築している。ほかの6段程の曲輪は小規模である。また、南西尾根を切断している堀切Aは幅4m・深さ2mあり、竪堀アは幅4m・長さ19m、竪堀ィは幅4m・長さ26mを測る。竪堀ウ・エは幅2m・長さ23mを測る。竪堀ィ・ウ・エは畝状竪堀を形成している。
竪堀オは幅3m・長さ20m、竪堀カは幅3m・長さ13m、竪堀キは幅3m・長さ20m、竪堀クは幅2.5m・長さ15mを測る。
3、まとめ
城のⅠ地区とⅡ地区の縄張りは異なるようである。
Ⅰ地区は古墳を利用した曲輪を二つの堀切・竪掘で改修したものであるのに対し、Ⅱ地区は竪堀・竪掘に加えて畝状竪掘等で改修した縄張りとなっている。全体的に、Ⅰ地区は古く、Ⅱ地区は新しい様相をしている。共通する点は、小曲輪を断続的に構築した縄張りであろう。以上のように考えると、築城起源は南北朝期に遡り、戦国末期に主に竪掘によって補強・改修されたものと推察される。
山名時氏は浜坂(楞リョウ厳寺)を足がかりにして竹野への進出を図り、時義や時熙の時代には竹野の興長寺・円通寺・蓮華寺・観音寺等を通じてその勢力を扶植している(『竹野町の中世城郭』)。前述の『垣屋系図』とも考え合わせると、亀ヶ崎城は南北朝期、山名氏の豊岡盆地進出の一拠点として垣屋氏による築城が成されたとしても不思議ではない。
尚、戦国期末期のⅡ地区を中心とした畝状竪掘は、当城と谷を挟んで約260m離れた尾根に立地する
海老手城同様、垣屋豊続の「繋ぎの城」としての普請されたものではなかろうか。<豊岡市の城郭集成Ⅰより>
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データ
- 所在地
- 兵庫県豊岡市福田字向山、森津字海老手
- 通称
- ─
- 形式
- 山城 (標高 約66m、比高 約60m)
- 遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀
- 築城者
- 不明
- 主要城主
- 垣屋重教、時忠
- 築城年
- 南北朝期?
- 廃城年
- 不明
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- 未確認
- アクセス
- JR山陰本線『豊岡駅』より