歴史
1、位置と城史
簸磯城は円山川左岸、簸磯集落北側の尾根突端、標高約110.6mに所在する。集落との比高は約100m程ある。城域は東西約120m、南北約110mを測る。
城主は橋本丹波守義綱であり、天正5年(1577)11月秀吉(秀長)の第1次但馬進攻の際落城した、と伝承されている。また和歌山県高野山西明院に「法名貴弘宗唱禅定門但州城崎郡日野曽城主 橋本丹波守天正五年十一月五日落城自刃ス」という碑があり、橋本氏の菩提寺であった雲光寺(城崎町来日)の位牌には「雲光寺殿貴弘唱居士、天正五年十一月五日没」と記されているという(『内川村誌』)。しかし、天正5年段階で、秀長の但馬進攻がこの辺りまで及んだか否かは史料的に確認できない。
2、城の構造
簸磯城は、主郭を中心とした4段程度の曲輪を、その周りの斜面に多数の竪堀群を構築することによって防禦しようとした縄張りである。
稲荷神社のある主郭Ⅰは東西約35m、南北約29mを測り、高さ1.2~1.5mの土塁と虎口aを構築している。更に主郭Ⅰから延びる主尾根には、4段の曲輪を配している。
この城の圧巻は、主郭を取り巻く放射状の竪堀群であろう。主郭Ⅰの背後(西側)には高さ9mの切岸を造り、2段の堀切・竪堀(b・c)で尾根筋を遮断している。特に主郭Ⅰの北~東斜面には9本の畝状竪堀・放射状竪堀を造り、その防禦性は一段と高まっている。また竪堀fは曲輪群(Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ)を切って造られており、曲輪と竪堀の時期差を表している。
3、まとめ
築城時期は3期に分けて考えることができよう。輙ち、①主郭の背後に一重の堀切を設け、主郭を中心に連郭式に縄張りをした室町期、②連郭式の縄張りを残したまま、主郭の斜面に、堀切・竪堀(e・d)や竪堀fなどで改修した天正初年、③主郭背後に二重の堀切・畝状竪堀を造り、主郭を虎口・土塁で堅固に補強し、更に放射状竪堀・畝状竪堀で大改修した天正5年頃だ。
城は小規模なもので、本来「村の城」(地侍クラスの城)として出発したものであろうが、戦国末期には円山川の舟運を押さえる重要拠点として、垣屋豊続勢によって改修が加えられたものであろう。<豊岡市の城郭集成Ⅰより>
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データ
- 所在地
- 兵庫県豊岡市城崎町簸磯字簸谷
- 通称
- ─
- 形式
- 山城(標高 110.6m/比高 100m)
- 遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀
- 築城者
- 不明
- 主要城主
- 橋本丹波守義綱
- 築城年
- 室町期?
- 廃城年
- 不明
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- 未確認
- アクセス
- JR山陰本線『城崎駅』より
- 北近畿豊岡豊岡自動車道『日高神鍋高原IC』より