| 1、位置と城史 海老手城は大浜川右岸、滝集落南側の標高77.3mの丘陵に所在する。山裾との比高は約73mと低い。城域は東西約250m、南北約150mと広く、ちょうど海老の手のような形状をしている。 城主は、田結庄是義の家臣・栗坂主水であると云う。天正3年(1575)10月15日、岩井(豊岡市)の養寿院参詣中の留守に轟城主・垣屋駿河守(豊続)らに攻められて落城する。栗坂主水はその救援を鶴城主・田結庄是義に要請し、垣屋豊続(毛利方)と田結庄是義(織田方)の戦いである「野田合戦」が始まる。この戦いで海老手城は再度落城し、田結庄是義は滅亡する(『但洲一覧集』『但洲発元記』)。「野田合戦」については江戸期の二次史料によっている。しかし、天正3年11月、八木豊信(八木城主)が「芸但和睦」により、但馬の情勢を吉川元春に報告した八木豊信書状(『吉川家文書』)によれば、「田結庄表に於いて、垣駿(垣屋豊続)一戦に及ばれ、勝利を得られ候間、海老手の城今に異儀無く之を持たれ候、御気遣いあるべからず候、」と記されている。したがって、「野田合戦」は垣屋豊続の勝利に期し、海老手城は垣屋豊続に接収され、垣屋氏の豊岡方面進出の「繋ぎの城」として重要視されたものと推察される。 2、城の構造 城は、細長い主郭から「海老の手」状に曲輪を連郭式に配置した縄張りであるが、堀切から斜面に延ばした長い畝状竪堀に特徴がある。 主郭1は東西約53m、南北約10mと細長く、その背後(西側)に曲輪2(8×21m)と曲輪3(11×14m)を設けている。主郭1と曲輪2の間には深い堀切(幅約10m・深さ約8m)を構築して尾根筋を遮断し、其処から南斜面に4条から成る畝状竪堀を配置している。主郭1の前面(東側)には曲輪4(10×15m)と曲輪5(17×10m)を設けている。 曲輪5の東側には、2方向に延びる尾根に「海老の手」状に曲輪を配置している。北東側には10数段の小曲輪群(曲輪9=10×12m、曲輪10=13×25m、曲輪11=16×9m)と中程に小規模な堀切・竪堀を配置し、南東側にはやや離れて曲輪6(10×15m)と曲輪7(15×30m)を設けている。曲輪7は規模が大きな方形の曲輪で、しっかりとした土塁(幅約3m・高さ1.5m)が半周している。 3、まとめ 城の曲輪は主郭1や曲輪7等は比較的規模が大きいものの、他の曲輪群は小規模であり、段差もそれほど大きくはない。曲輪は全体的に古い様相を示しており、南北朝〜室町期に築城起源を有するものであろう。しかし、土塁をもつ方形の曲輪7や畝状竪掘は戦国末期の改修の所産と推察される。 戦国末期には、八木豊信書状に記されているように、垣屋豊続や吉川氏の対織田戦争の為の重要な「繋ぎの城」として改修されたことが想定される。<豊岡市の城郭集成Tより> |