本文へスキップ

全国気ままに城めぐり♪

日本お城めぐりの旅

美久仁城BIKUNI CASTLE 


歴史

1、位置と城史 
 美久仁城は竹野川右岸、中竹野小学校の裏山、標高約40mの尾根突端に所在する。轟集落との比高は約27mを測る。城域は東西約80m、南北約110mを測る。
 城主や城史に関する伝承や資料は不明である。
 平成11~12年(1999~2000)竹野町道阿金谷轟線改良工事に伴って、竹野町教育委員会によって発掘調査された。

2、城の構造 
 発掘調査以前の縄張りについては、筆者は『竹野町の中世城郭』(竹野町教育委員会 1998)の中で次のように記している。
 主郭背後を堀切(幅7m・深さ3m)と竪堀(ナガワ15m・幅3.5m・深さ2m)で遮断し、その前面を城域としている。東西25m、南北30mを測る主郭1の南側は土塁(長さ19m・幅2.5m・高さ1.3m)と堀切・竪堀、その北・西側は2段の帯曲輪(曲輪2=幅5~8m、曲輪3=幅6m)、更に主郭東側の斜面は横堀と竪堀で防禦を固めている。また、主郭東側の一段低い所は、北東斜面から主郭に入る虎口受けの曲輪であろう。尚、曲輪4より北側の尾根には更に曲輪が配置されていたものと思われるが、残念なことに既に開発(小学校建設)により破壊されている。
 美久仁城は方形の主郭を帯曲輪・土塁・堀切・竪堀・横堀で防御するという単純なプランであるが、防御性は高い。築城時期は、轟城よりも寧ろ新しく、天正5~7年(1577-79)頃が考えられる。位置的には轟城の北東に所在し、街道を押さえる機能を有していたものであろう。

 発掘調査によって判明した点は、
①城は少なくとも、3回程度の改修を受けていること。
②帯曲輪と思われていた曲輪3は横堀であり、曲輪1・2を粗全周する形で土塁をもつ横堀が構築されていた(主郭北西側の横堀も、元来は土塁を伴っていたであろう。)
③北側の横堀の断割り調査によって、横堀Bの下に竪堀4が構築されていた。輙ち、横堀Bは竪堀4を埋めて改修されたものであった。
④新たに、北西尾根に6段の小曲輪群が発見された。中竹野小学校建設以前の写真を見ると、曲輪4の北側にも尾根が延びており、小曲輪群が構築されていた可能性がある。

 以上の諸点から、築城時期を推定すると、
①北西尾根の小曲輪群の存在から、築城起源はは南北朝期に遡る可能性がある。
②主郭1・曲輪2・曲輪3などが何時構築されたのかは明らかではないが、主郭を2重の帯曲輪で防禦する縄張りは戦国期のものではなかろうか。
③更に、主郭背後の堀切・竪堀1、竪堀2、土塁、横堀A・竪堀3、竪堀4などによって戦国末期に改修されている。
④最終段階には曲輪をほぼ囲繞する土塁を伴う横堀を構築することによって防御性の強化を図っている。その時期は、天正8年(1580)以降の織豊記ではなかろうか。

3、まとめ  
 轟城は縄張り的に堀切・竪掘が卓越し、一部畝状竪掘を構築しているが、横堀は見られない。しかし美久仁城では横堀・竪掘だけでなく、曲輪を囲繞するような横堀(織豊的要素)が見られる。この両者の縄張りの違いは、何に起因するのであろうか。
 但馬の戦国期城郭の横堀は部分的に造られ、しかも竪掘や畝状竪掘と組み合わせる形(竪掘とのセット関係)で構築されている。しかし美久仁城では、横堀は竪掘とのセット関係だけでなく、曲輪をほぼ囲繞する形で構築されているという違いがある。
 但馬の織豊系城郭(土城)の縄張り的特徴は、土塁囲みの曲輪、横堀をほぼ全周させた曲輪、「折れ」をもつ横堀、櫓台、土塁をもつ一折れの虎口等である。しかし美久仁城では、曲輪に横堀を全周させた形は存在するが顕著な「折れ」は見られず、しかも土塁囲みの曲輪や曲輪のラインを意図的に屈曲させた櫓台、土塁で固めた虎口等の遺構は存在しなかった。
 以上の様な縄張りの検討から、美久仁城は戦国末期の但馬敵城郭を織豊的な横堀で改修したものと判断される。換言すれば、美久仁城は在地勢力が織豊的要素を一部取り込んで、天正8年以降改修の手を加えたものであろうと思われる。位置的には、美久仁城の築城主体は轟城と共に、垣屋氏(豊続)であることは間違いなかろう。
 ところで、天正8年6月鳥取攻めの最中、秀吉は垣屋豊続に所領2,000石を与えている。秀吉は豊続を「有用な人物」として認識しており、その知行地は美含群(竹野町・香住町)である。豊続は但馬で最後まで秀吉に抗したものの、鳥取攻めでは宮部継潤傘下での功績が大であったのであろう。また豊続は宮部継潤からも1,000石を与えられ、計3,000石の領知を給与されている。
 現段階では、美久仁城の特異な横堀に着目すれば、天正8年以降の垣屋豊続の居所を館城的要素をもつ美久仁城にあてることができるのではなかろうか。そのように考えると、戦国末期の縄張りをもつ美久仁城を、天正8年以降に改修したのは織豊化した垣屋豊続ということになろう。<豊岡市の城郭集成Ⅰより>


コメント

オススメ 
規 模   
難易度  
アクセス ☆☆☆


データ

所在地
兵庫県豊岡市竹野町轟字城山
通称
形式
山城(標高 40m/比高 27m)
遺構
曲輪、堀切、竪堀
築城者
不明
主要城主
不明
築城年
南北朝期?、天正5~7(1577~79)頃?
廃城年
不明
開城時間
常時
入城料
無料
休城日
なし
駐車場
未確認
アクセス
JR山陰本線『竹野駅』より3km(車で4分) 
山陰近畿自動車道『香住IC』より20.2km(車で23分)
北近畿豊岡自動車道『日高神鍋高原IC』より26.5km(車で35分)

日本100名城
現存12天守
番外編

個人データ
初登城日:未 踏
最終登城日:未 踏