南北朝時代から伊丹氏の城として発展してきた伊丹城は、永正17年(1520)には城下町をも城の中に取り込んだ『惣構』構造の兆しが見られ、その後の一向一宗との合戦など、数々の戦いを経て次第に強化されていきました。
天正2年(1574)、織田信長の部将・荒木村重が伊丹氏を破って入城し、『有岡城』と改名しました。そして摂津一国の軍事上の中心として大改修を行ない、主郭部・侍町・町屋地区の全体を堀と土塁で囲み、北・西・南にそれぞれ砦を配した惣構の城を完成させました。
天正6年、村重が信長に背いた為、大軍によって包囲され、10ヶ月の攻防戦の末に落城しました。その後、池田之助(ゆきすけ)が城主となりますが、同11年には美濃国に移り、城は廃されました。城下町のうち町屋地区はそのまま残り、江戸時代には酒造りの町として栄えました。主郭部は『古城山』などと呼ばれ、堀跡や土塁が残っていましたが、明治時代に鉄道(現在のJR宝塚線)が開通したことにより、大半が取り壊されました。
しかし、昭和50年(1975)から行われた発掘調査により、土塁の石垣や建物跡など、貴重な遺構が残っていることが判って、国史跡に指定されました。現在の史跡公園は昭和58年度から平成5年(1993)度まで10年以上かけて整備したものです。<現地案内板より>