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全国気ままに城めぐり♪

日本お城めぐりの旅

鳶ヶ城TOBIGASHIRO


歴史

 鳶ヶ城は、木見ヶ鼻(きのみがはな)から宮田財産区の手前まで凡そ1,200mに及ぶ尾根伝いに南北朝時代の曲輪が延々と続いています。当時の城主・土田太郎左衛門尉は、南朝に味方し北朝方と戦ったことが古文書に記されています。
 戦国時代には、主郭周辺を大規模に改修し、帯曲輪をめぐらし10条の竪掘を配置するなど防御力を強化しています。戦国期の城主は判っていませんが、高生田(たこうだ)城の福富氏と協力関係にあったとも考えられています。

 想像図では、柵を巡らし、小屋をかけ、井楼を組んで、北は猿岩、南は和田山、東は糸井谷の奥までを窺い、敵味方の動向を監視しています。甕に水を貯え、敵を撃退する丸太や石を積み上げ、虎口に門を構え、主要な尾根には曲輪を連ねて戦いに備えています。
 鳶ヶ城の大手は土田側で、西土田の光明寺から見上げる城山は圧倒的な迫力があります。この画も、土田側から見た主郭の様子を描いています。

 鳶ヶ城の城域は広大で、国道9号トンネルが通過する木見ヶ鼻から東見寺霊苑の背後まで、延々1,200mに及ぶ尾根筋に、南北朝~戦国期の山城遺構が残存する。 
 全域にわたり、小曲輪が階段状に連続し浅い堀切を設けた南北朝期山城の様相をみせているが、要所には比較的大きな堀切が配されている。特に標高222mの山頂に構築された東西15m×南北37mの主郭は、粗全周を巡る帯曲輪、高さ15mを超す大切岸に加えて10条の竪掘群を集中的に配置し、旧城址の主郭部分を、コンパクトで機能的な戦国期山城に改修している。
 南北朝期の鳶ヶ城は「土田冨栖(はんだとびす)城」と呼ばれ、延元元年(1356)、城主の土田太郎左衛門尉は南朝に味方して北朝方の攻撃を受けている。
 戦国期には、福富氏の高生田城と共に山名祐豊(すけとよ)の配下にあったらしい事が、土田・枚田の山境に関する天文23年(1554)の鑑定文書から窺えるが、城の呼称や城主を明らかにした史料は知られていない。
 廃城についても確実な史料はないが、近隣諸城と同じく天正5年(1577)または8年、羽柴秀吉の但馬侵攻により落城したものと思われる。<現地案内板より> <縄張図


コメント

オススメ ☆☆☆☆
規模   ☆☆☆☆☆
難易度  ☆☆☆☆
アクセス ☆☆☆


データ

所在地
兵庫県朝来市和田山町宮田、土田
通称
圡田城、土田冨栖城
形式
山城(標高 222m/比高 140m)
遺構
郭、堀切、竪堀、切岸
築城者
土田太郎左衛門尉?
主要城主
土田氏、福富氏
築城年
南北朝時代?
廃城年
天正5(1577)または8年(1580)?
開城時間
常時
入城料
無料
休城日
なし
駐車場
宮田駐車場(無料/約5台)、土田ゲートボール駐車場(未確認)
アクセス
JR山陰本線/播但線『和田山駅』より2.0km (徒歩25分)で登山口
北近畿豊岡自動車道/播但連絡道『和田山IC』より5.8km(車で11分)

日本100名城
現存12天守
番外編

個人データ
初登城日:2019.4.18
最終登城日:2021.2.16