本文へスキップ

全国気ままに城めぐり♪

日本お城めぐりの旅

新発田城SHIBATA CASTLE


歴史

■築城
 慶長3年(1598)加賀・大聖寺から越後蒲原郡に入封した初代藩主・溝口秀勝は、まず五十公野(いじみの)に居を構えて領内の統治と築城について構想を練ったと伝えられる。上杉景勝と戦い滅びた新発田(佐々木)重家の城跡を取入れ、新たな城の構築を始め、秀勝入封56年後、3代藩主・宣直の時に完成した、その後、寛文8年(1668)、享保4年(1719)に大火で櫓などを焼失し、その都度修復している。このため時代により櫓の位置画や数に変化が見られる。
 新発田城は本丸が舟のような形をしているので『舟形城』、また当時周囲に湿地が多く、あやめが沢山咲いていたことから『菖蒲(あやめ)城』、城づくりのとき、一匹の狐が現れ、尾を引いて縄張りのヒントを与えたという伝説から『尾引城』とも呼ばれている。

■城の防御
 城の構えは本丸を二の丸が取り囲み、南に三の丸を突き出し、その南端五十公野方向に大手門を開いた南北に長い瓢箪状をなしており、南西部一帯に城下町が造られている。これは当時北・東・西の三方が湿田や湿地であったことから自然の要害になっていた。他領からの街道の何れもが五十公野を通って城下に入るようにしてあった。城下の幹線道路の両端には足軽を配置して上・下鉄炮町が形成されていた。

■本丸の石垣と土塁
 本丸の三階櫓から鉄炮櫓、辰己櫓の間は現在も見られるように完全な石垣であったが、本丸の北・東面や二の丸、三の丸の大部分は土居で囲まれていた。石垣の築き方は美観を重視した『切込ハギ』と呼ばれるもので、石の表面は丁寧に整形してあり、石と石の間に隙間を残さないように積み上げられている。石材は全て五十公野古寺に産する粗粒玄武岩(通称:古寺石)が使われている。

■櫓と門
 明治初年の新発田城には本丸、二の丸、三の丸併せて櫓が11棟と主な門が5棟あった。天守閣と呼ばれるものはなく、本丸の西端にあった三階櫓がその役目を果たしていた。櫓などの屋根に上げる鯱は通常2個であるが、この三階櫓は棟がT字形になっており、三つの入母屋を造り其々に鯱を上げるという他に類例を見ないものであった。
 また、門のうち現存している本丸表門は二階建ての櫓門となっており、襲ってくる敵を悩ませる『石落とし』という仕掛けがある。また三の丸の大手門、二の丸の大手中の門、西の門、本丸の裏門は高麗門と櫓門の組み合わせからなる枡形門と呼ばれる二重の門であった。外側の高麗門を入り、中で直角に曲がって櫓門を潜るようになっており、入口を固め、進入する敵兵に対して迎撃がし易いようになっていた。

■三階櫓と辰巳櫓
 江戸幕府に提出した『正保城絵図』の控えといわれる『正保二年新発田藩家中屋敷絵図』(1645)には二重櫓として辰巳櫓と西南櫓(後の三階櫓)が描かれていることから、それ以前に完成していたことが分かる。寛文8年(1668)に城に大火があり、西南櫓も焼失したが、延宝7年(1679)に三重の三階櫓として再興された。以後、修理を行ないながら明治初年に至った。

■廃藩後の新発田城
 新政府の命令により明治初年に櫓と門は取り壊され、堀も土居を崩し次々と埋め立てられた。城の面影を残すものは、現存する本丸表門、旧二の丸隅櫓、本丸石垣と堀の約半分、土橋門付近の土居のみとなっていたが、三階櫓と辰巳櫓が平成16年に復元された。表門、旧二の丸隅櫓は昭和32年(1957)に国の重要文化財の指定を受け、昭和34年から35年にかけて解体修理工事が行なわれた。このとき二の丸隅櫓が二の丸北部から現在の本丸の鉄炮櫓跡に移された。平成18年には(財)日本城郭協会より日本百名城に認定された。<現地表門配布パンフレットより> 
 

コメント

オススメ ☆☆☆
規模   ☆☆☆
難易度  ☆☆☆
アクセス ☆☆☆


データ

所在地
新潟県新発田市大手町6丁目
別称
舟形城、菖蒲城、尾引城、浮舟城
形式
平城
遺構
櫓、櫓門、足軽長屋、水堀、石垣、曲輪
築城者
新発田氏
主要城主
新発田氏、溝口氏
築城年
鎌倉時代
廃城年
開城時間
10:00~16:00
入城料
無料
休城日
無し
100名城スタンプ
表門
駐車場
無料駐車場あり
アクセス
JR羽越本線『新発田駅』より1.7km(徒歩22分)
日本海東北自動車道『聖籠新発田IC』より5.1km(車で14分)

日本100名城
現存12天守
番外編

個人データ
初登城日:2017.5.19
最終登城日:2017.5.19