歴史
□歴史
高岡古城公園は、加賀藩2代藩主・前田利長によって築かれた高岡城の城址です。
慶長14年(1609)、利長は大火に見舞われた
富山城に代わり、加賀・能登・越中の中心に位置する関野の地に居城と城下町を移し、高岡城と命名しました。縄張り(設計)を担当したのは、築城の名手と謳われた高山右近と伝えられています。
慶長19年(1614)、利長が死去し、次いで大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した元和元年(1615)、幕府の一国一城令により高岡城は廃城されました。しかし、3代利常をはじめ歴代の藩主は、城址を高岡町奉行の管理下において、米蔵や塩蔵を設置し、土塁や堀を残す措置をとりました。
明治3年(1870)、金沢藩は窮民救済と農地増殖を目的に高岡城址を民間に拂い下げる布達を出し、明治5年(1872)の廃藩置県後、七尾県は水濠を除く31,066坪を民間に払い下げる決定をしました。これに対して、高岡の象徴である「古御城」を壊すことについて高岡町民は反対の意思を示し、当時の第17大区区長(現在の高岡市長に相当)服部嘉十郎ら高岡町民有志による公園指定請願運動が起こりました。
明治6年(1873)の公園条令(太政官布告)、翌年の射水神社の遍座もこの運動を後押しするものとなり、明治8年(1875)7月に「高岡公園」として指定され、今日の高岡古城公園が誕生しました。
□特色
高岡城は、日本の築城技術が高度に発達した慶長期の縄張りを完全な形で残しており、近世初頭の城郭構造を知る上で貴重な遺構として全国に知られています。
城址全域に及ぶ公園面積は約21万㎡と広大で、しかもその1/3が堀で占められており全国有数の水濠公園です。<中略>
□石垣
二の丸から本丸に渡る土橋の両側には、築城当時の石垣が残っています。
内掘側の石垣の石材を調べたところ、高岡から氷見の海岸で切り出される砂岩が4割、残りは県東部で切り出される花崗岩や安山岩が用いられています。
石には岩を断ち割る際に楔を打ち込んだ「矢穴」の他、60種類余の文様・記号を刻み込んだ「刻印」を見ることが出来ます。<現地案内板より>
コメント
オススメ ☆☆
難易度 ☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 富山県高岡市古城
- 通称
- ─
- 形式
- 平城
- 遺構
- 曲輪、石塁、土塁、堀
- 築城者
- 前田利長
- 主要城主
- 前田利長
- 築城年
- 慶長14年(1609)
- 廃城年
- 元和元年 (1615)
- 開城時間
- 常時 (城址公園)
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし (城址公園)
- 100名城スタンプ
- 高岡市立博物館内 (9:00〜17:00)
- (休館日:月曜日、12月29日〜1月2日)
- 駐車場
- あり (城址公園内:無料)
- アクセス
- JR北陸本線『高岡駅』より 徒歩10分
- JR氷見線『越中中川駅』より 徒歩5分