慶長13年(1608)8月、藤堂高虎は伊賀の国10万石、伊勢の国の内で10万石、伊予の国の内で2万石に移封となった。(のち32万3,954石余となる)
移封は、徳川家康の信任が厚かったのと、紀伊や大和の反勢力の押さえと築城の名手でもあり、目前にせまる豊臣家討伐に備えたもので、慶長16年(1611)正月、上野城の本丸を西に拡張、高さ約30メートルという高石垣をめぐらした。
建設中の五層の天守閣は、慶長17年(1612)9月2日、当地を襲った大暴風で倒壊、その後、慶長19年(1614)の大坂冬の陣、元和元年(1615)の夏の陣と徳川方の勝利に終わり、幕府は諸大名の城普請を厳しく禁止したので上野城の天守閣は再建されなかったが、伊賀の国の城として明治まで城代家老を置いて存続した。
現在の天守閣は、当地出身の政治家川崎克氏が、熊野の山林家奥川吉三郎等の協力を受け、また自らが愛蔵する古美術品を売却して復興資金を調達、昭和10年(1935)10月18日に落成、伊賀の産業陳列館として『伊賀文化産業城』と名付けられたが、優雅な姿から白鳳城(はくほうじょう)と呼ばれて親しまれている。<現地案内板より>