歴史
=明智光秀が生まれた!?多羅(良)城=
多羅城は、大垣市上石津多良地区に曾てあったと推察される戦国時代の城館です。関ヶ原の戦い以前、この地を所有していた関一政が多羅(良)城を築いたとされ、築城時期は天正年間とも慶長年間とも言われています。
しかし、明智光秀が多良で生誕したとされる史料には、”多羅は進土家の居城”とある為、関氏以前から多羅城は存在していた可能性があります。慶長5年(16000)、関ヶ原の戦いの後、関一政は伊勢国亀山(現亀山市)に移封となり、代わって高木貞利がこの地に転封され旗本となりました。
多羅城の場所等の特定には至っていませんが、推定される場所が複数あります。宮の西高木家陣屋跡や羽ヶ原の城ヶ平、上多良の城屋敷、松ノ木の城山、時、下山の城山などが城跡とされる場所で、其々の地名に『城』の名が今も残されています。
=史跡 西高木家陣屋跡=
西高木家陣屋跡は、旗本であった西高木家の陣屋跡で、石垣、長屋門等の建造物、石列・暗渠等の地下遺構が良好に残されている。また、膨大な古文書群が現存し、近世旗本領主の実態を示す極めて重要な遺構である。
高木家は大和高木村の出で、享禄元年(1528)に美濃に移った土豪です。斎藤道三、織田信長に仕え、美濃南部駒野・今尾周辺(現・海津市)を拠点としました。一時甲斐に赴きましたが関ヶ原合戦の功により、慶長6年(1601)に石津郡時・多良郷に4,300石を与えられ入部し、西高木家・東高木家・北高木家三家それぞれで陣屋を構え、江戸時代を通じて同地を旗本として支配した。高木家の石高は三家で4,300石(西家2,300石、北家・東家各1,000石)でしたが、「交代寄合美濃衆」として大名と同等の格式を許され、知行地に常時居住し乍ら江戸屋敷を有し、参勤交代を行った。
時・多良の領地は美濃・伊勢・近江の3国が接する軍事・交通の要衝で、特に上方の非常事態に備えた。また、木曽三川の治水行政にあたる川通御用としても重要な役目を負い、宝永2年(1705)より幕末まで、水行奉行(みずゆき)として美濃・伊勢・尾張の諸河川の管理に当たりました。
陣屋は牧田川が形成した河岸段丘上に位置し、高位側に西高木家陣屋、低位側に北家・東家の陣屋が隣接して営まれた。西高木家陣屋は伊勢街道に東面し、段丘崖を中心に石垣が構築され、埋門も整備された。北に上屋敷、南に下屋敷が構えられ、上屋敷西方には墓所が営まれた。
墓所には墓石42基が残り、18世紀後半から石製墓標を採用しながら先祖の墓の整備が進められた事が判明している。
近代以降、西高木家敷地は上屋敷を中心に縮小し、現在は明治年間建造の主屋と寛永5年(1852)の下屋敷御門を移築した長屋門が残る(屋敷地内非公開)。
また、高木家関連の古文書群は10数万点にも及び、旗本や交代寄合の特殊な役割を知ることが出来る貴重な史料群である。<現地案内板、石津郷土資料館配布パンフレットより>
コメント
オススメ ☆☆☆
規模 ☆☆☆
難易度 ☆☆☆
アクセス ☆☆☆☆
データ
- 所在地
- 岐阜県大垣市上石津町宮237(国史跡)
- 通称
- 多羅城、多良城
- 形式
- 陣屋(標高 128m/比高 30m)
- 遺構
- 門、曲輪、石垣
- 築城者
- 関一政
- 主要城主
- 関氏、高木氏
- 築城年
- 天正年間?慶長年間?
- 廃城年
- 明治元年 (1868)?
- 開城時間
- 常時(上石津町郷土資料館:9時半~17時)
- 入城料
- 無料(上石津町郷土資料館:100円)
- 休城日
- なし(上石津町郷土資料館:火曜、祝日の翌日、年末年始)
- 駐車場
- 上石津町郷土資料館無料駐車場:数十台
- アクセス
- JR東海道本線『大垣駅』より21km(車で約40分)
- 名阪近鉄バス(大垣駅南4番乗場より『多良・時』行/『宮』下車すぐ)
- 名神高速道『関ヶ原IC』より10km(車で約15分)