歴史
島津義弘隊15,000余は、未明までに関ヶ原へ入り、この地から北西約250mの薩摩池付近に陣を敷いた。二番備えとして石田三成の側面の守りと、北国(ほっこく)街道の押さえを任される。開戦後は、自ら攻撃に出ることはなく、自陣に近づく者は東西両軍に拘らす打ち払う姿勢をとった。
三成からは幾度も参戦を要請されたが、使者として訪れた三成の家臣・八十島助左衛門が下馬しなかった事を無礼として、激怒し追い返す。その後、三成自身が説得に来るも、「今日の儀は、面々切に手柄次第に相働くべく候」(今日の合戦は、各々が好き勝手に手柄を立てられるよう戦いたい)と呼応しない。
一進一退の攻防が続く中、小早川秀秋の寝返りにより戦況は一変。東軍の猛攻に耐え切れなくなった西軍諸隊は次々に敗走する。孤立した島津隊へ東軍諸隊が迫る中、義弘は討死を覚悟するが、甥の義久に説得され、撤退を決める。
西軍諸隊が背後となる西方の近江方面へ敗走する中、義弘は大胆にも、東軍諸隊が群がる正面を突破し、伊勢街道を南方に抜ける進路をとる。島津隊は徳川家康本陣に向かって猛烈な勢いで突撃した。これが現代にまで語り継がれる「敵中突破」なのです。<現地案内板より>
コメント
オススメ ☆☆
規模 ☆☆
難易度 ☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原1961-4
- 通称
- ─
- 形式
- 陣所
- 遺構
- ─
- 築城者
- 島津義弘
- 主要城主
- 島津義弘
- 築城年
- ─
- 廃城年
- ─
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- なし
- アクセス
- JR東海道本線『関ヶ原駅』より1.2km(徒歩15分)
- 名神高速道『関ヶ原IC』より2.4km(車で約6分)