沓掛城は旧鎌倉街道の名勝地である二村山から南東方向に緩やかに下る低丘陵の東端、標高21m付近に立地する。
14世紀頃、近藤宗光が初代城主としてこの地を治め、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの前日に今川義元が入城し、織田攻撃の準備をした城と伝えられている。桶狭間の戦いの際の城主は9代目近藤景春で今川方に属し、落城後は簗田(やなだ)出羽守(政綱)、織田越中守(信照)、川口久助(きゅうすけ)が在城したことが『張州府志』や『尾州古城志』等に記され、慶長年間(1596-1615)に廃城になったとされる。
江戸時代中期に描かれた『沓掛村古城絵図』(蓬左文庫蔵)では城の形態は本丸、二の丸、三の丸が北から南へ連なる連郭式の縄張りで本丸は堀に囲まれ、内側に土塁を築き、南を除く三方に侍屋敷を配置し、更にその外側にも堀を巡らせている。全体的な広がりは東西約290m、南北約234mの広い範囲に及ぶものと推定される。
また、昭和56年から昭和61年(1981-1986)にかけて行われた本丸部分の発掘調査では「天文17」と書かれた木簡や天目茶碗、建物礎石等、多くの遺物が発見されており、遺構は16世紀を中心に大きく3期に渡って改変されていることが明らかとされている。
〇第1期 苑池を配置した建物が建てられた後、掘立柱建物をため池、井戸が作られた居館的な性格の強かった時期
〇第2期 掘立柱建物が壊され池も埋め立てられて、堀と土塁・礎石建物が造られた城郭的性格が強かった時期
〇第3期 土塁が削平され城郭としての機能が失われた時期
平成元年(1989)に沓掛城址公園として保存整備された。尚、本丸・二の丸・諏訪曲輪・内堀・侍屋敷の主要な遺構は概ね原型を保ち、戦国末期の旧態を留めている。
平成29年4月1日指定 <現地案内板より>