田原城は、文明12年(1480)頃、戸田宗光が渥美半島統一の拠点として築城し、以来70年にわたって栄えたが今川義元によって攻略され落城した。その後、城主は交代し、慶長6年から戸田尊次が1万石で、寛文4年には1.2万石で三宅康勝が入城し、三宅氏の居城として栄え明治維新を迎えた。
田原城は、嘗て海が城の周囲を入り込み入江を形成していた為、その状況が巴文に似ていることから、巴江(はこう)城とも呼ばれている。中世に築かれた城を利用したため地形、規模等の制約を受けているが、藤田曲輪・本丸・二ノ丸・三ノ丸・出曲輪及び付属する腰曲輪の周囲を、堀によって区画するなど随所に工夫が見られ、更に二ノ丸櫓、桜門周辺は石垣、水堀を配するなど様々な工夫を凝らし、小さいながらも近世の城郭に相応しい構成を取り入れている。また空掘、土塁など随所に中世城館の遺構を残す貴重な城である。<現地案内板より>