歴史
ここ長谷堂城跡は、
山形城の西南約7kmに位置し、標高227m、比高約85mの独立の丘陵に築かれた山城で、古くから天然の要害の地であった。
この地に城砦(じょうさい)が築かれた時期は明らかではないが、永正11年(1514)置賜(おきたま)の伊達稙宗(たねむね)軍に一時占拠されたという文献が残されており、少なくともそれ以前であったと考えられている。
その後、最上領西南の守りとして、本沢川から導水して深堀を廻らし、土塁を築く等強固な城砦に整備された。
慶長5年(1600)『出羽の関ヶ原合戦』といわれた攻防戦があり、全国きっての知将・会津の上杉景勝の家老・直江兼継が、山形の最上義光を攻めた合戦の折、最上軍の将、志村伊豆守光安が長谷堂城に拠って、2万数千の大軍の猛攻撃から、半月間にわたって凌ぎ城を守りきった。
この事から、長谷堂城は『難攻不落』として戦史に残る事になる。
戦後、光安は加増され庄内酒田の亀ヶ崎城主となり、その後、成沢城から坂紀伊守光秀が移封され、長谷堂城下の整備に尽くした。元和2年(1616)光秀の没後、光重が後を継いだが、元和8年(1622)最上家改易と同時に廃城となった。
山形市の調査により、中世の城郭跡としてこれだけの虎口や曲輪の跡が残されているのは珍しく、学術的・文化的価値の高い史跡であることが明らかにされている。<現地案内板より>
第二の関ヶ原・最上勢(東軍)と上杉勢(西軍)が対峙した長谷堂城の戦いの舞台。
永年11年(1514)伊達稙宗が長谷堂城を落としたとの記録が残っているが、これが初見で築城者、築城年などは分かっていない。
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オススメ ☆☆
難易度 ☆☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 山形県山形市長谷堂館山
- 通称
- 亀ヶ城
- 形式
- 山城 (標高 227m)
- 遺構
- 曲輪
- 築城者
- 不明
- 主な城主
- 志村光安
- 築城年
- 不明
- 廃城年
- 元和8年 (1622)
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- 長谷堂城公園駐車場 (無料)
- アクセス
- JR奥羽本線、山形新幹線『山形駅』よりバス 『長谷堂』下車