三戸城の築城年代については、現存する資料に確かな記述を見る事は出来ないが、伝承によると三戸南部氏の居城であった聖寿寺館(しょうじゅじたて:現南部町)が、天文8年(1539)に家臣の放火により焼失、その後三戸に居城を移したと言われている。
天正18年(1590)、豊臣秀吉は南部信直に対して『南部内七郡』の領有を認め、同時に三戸城を正式な南部氏の居城と定めた。その後、南部氏の居城は福岡(現岩手県二戸市)、盛岡(現岩手県盛岡市)へ移るが、三戸城には17世紀後半まで城代が置かれ、藩主が度々当城を訪れている。三戸代官所設置後は御掃除奉行が任命され、城の管理がなされていた。
城内へは下馬御門(イラスト右下)から入り、綱御門→鳩御門→欅(けやき)御門→大御門を経て本丸に至る。鳩御門より本丸に向かう道の両側には家臣の屋敷が配置されている。本丸の東に位置する搦手御門を通って、鶴池・亀池に挟まれた道を東方に下がると城の裏口の鍛冶屋御門に至る。<現地案内板より>