横手城は、天文・弘治年間(1532-1557)に小野寺氏によって築城されたと伝えらえれ、別名を『朝倉城』とも、また、戦国時代に城の主郭の斜面にニラを植えたことから『韮城』とも呼ばれた。
城は、関ヶ原の合戦後、城主・小野寺義道が反徳川方にあったと見られ、石見国(現島根県)に配流され、慶長7年(1602)からは戸村氏が勤めた。
慶應4年(1868)、戊辰戦争の合戦で、横手城は、庄内、仙台、山形の藩兵の攻撃を受け炎上し、藩士及び藩卒21名が戦死した。この霊は今も龍昌院に眠っている。
戊辰戦役後、明治5年(1872)、城郭は陸軍省に収納された。当時城址は荒れ果てており、これを見かねた旧士族6人が6百円で払い下げを受け、そして明治12年に秋田神社の分社を建立遷宮し、城址一帯を当時の横手町に寄付した。町ではここを横手公園として整備した。<現地案内板より>