ここは、大内氏24代・弘世が正平15年(1360)頃それまでに館があった大内御堀から山口に移り、館を定めた所です。
大内氏は弘世以後歴代がここで政務を執り、その領国は、中国・九州地方まで及んだ為、山口は西日本の政治経済の中心地となりました。また、大内氏は海外との交易によって富の蓄積と異国文化の移入、京の戦乱を避けて公卿・僧侶等の文化人が、この館を訪れたことによって、当時の山口は京都を凌ぐ程の富と文化を誘ったといわれています。天文20年(1551)大内氏31代・義隆は重臣・陶晴賢の叛乱により滅亡しました。
その後、陶氏を滅ぼした毛利氏は、弘治3年(1557)大内義隆の菩提を弔う為、この館跡に龍福寺を建立しました。
館は、百間四方の堀と土塁に囲まれた中に造られていたと言われています。現在は、殆どその面影を見ることは出来ませんが、山門の東側竹薮の中に土塁の一部を見ることができます。<現地案内板より>