串崎城は長府藩祖の毛利秀元が築城した近世城郭で、雄山(かつやま)城と称していました。
長門国一国と周防国の一部などを領有していた秀元は関ヶ原の役の後、毛利氏の防長2ヶ国への減転封に伴い、長門国西端の豊浦郡一帯を分知されました。
慶長7年(1602)に長府に入部した秀元は長府串崎を城地に選定しました。串崎は海に突出した半島状の地形で、北、東、南の三方を海と断崖が取り巻く要害となっていました。
室町時代、大内氏の家臣である内藤氏がこの地に城を築き、配下の勝間田氏が城主となって長府の町を警固しており、秀元はこの旧城部分を主郭として継承し、近世城郭として整備拡大していったものと推測されます。
作事奉行は秀元の客将となっていた細川元通の家臣である秋田清長が務めました。秋田氏は功山寺の再興等も行なっており、長府藩草創期の主要な普請を手掛けています。
城地の西方から壇具川までに位置する御舟手、外浦、侍町、関峠などは『郭内』とされ、大身の家臣などが家宅を構えていました。
天守については、これを示唆する記録があり、また、天守台の発掘調査により建物の礎石等も確認されていることから、未完、完成は別として、その存在を証することができます。
この城は元和元年(1615)の一国一城令により破却され廃城となりましたが、軍事的な要地であったことから、幕末には関見台台場と城山台場の2つの砲台が築造されて攘夷に備えました。しかしながら、元治元年(1864)の下関戦争で真っ先に砲撃を受け、瞬く間に破壊されています。
なお秀元は廃城後、三の丸に相当する位置(豊浦高校の敷地一帯)に館を構えて居所と藩庁とし、長府藩の領国経営を行ないました。
この天守台の石垣は、城下町長府のシンボルとして整備を行なったものです。<現地案内板より>