本丸南側の区画にある殿舎を『表』とし、藩主の寝所、御座之間の他、式舞台、大書院、御用所、玄関等が配され、政務を執り行なう公的な施設として使用されていました。また、藩主の身の回りの世話をする医師や茶堂、衣類方、煮方等が常駐する部屋も設けられていました。
また、本丸北側の上段の区画に建てられた殿舎を『奥』とし、藩主夫人をはじめ家族の居室として使用されていました。
明治を迎え、明治2年(1869)6月、長府藩は版籍を奉還した上で、豊浦藩に改称しました。これにより藩主は藩知事に任命され、同年10月3日、豊浦藩の藩庁を勝山御殿としました。明治4年(1871)7月14日、廃藩置県により豊浦藩は廃され、豊浦県となり、勝山御殿は県庁として利用されましたが、同年11月15日に山口県に統合され、その用も終えました。
長府毛利氏の御殿(治所)は、現在の豊浦高校の所にありました。
新しい時代が始まろうとする境目に、突然、田倉『四王司山』南麓のこの土地は歴史の表舞台に登場します。
文久3年(1863)5月10日を期限とする『夷敵打払令』を守った長州藩は早速に関門海峡でアメリカ商船を砲撃します。第4次までは順調に運びました。
しかし、6月5日のフランス軍艦の襲来は実に厳しく、激しい砲撃を加えられるだけではなく、前田砲台は占領され前田集落は大きな被災を被りました。
こうした緊迫した状況の中で、長府藩の中心をどこに移すかで最終的にこの地が選ばれ、同じ年の7月25日、大急ぎで造り始め、翌年の2月1日には藩主以下の中心となる者がこの館に移転したのですから驚く外はありません。
現在遺っている見事な石垣は、上下二段の構えになっています。絵図によると部屋数60を越す壮大な建物が
造られていました。
この造営に動員された人々は果たして幾百幾千人であったのでしょうか。<現地案内板より>