江戸末期、毛利藩は外敵からの防御の為、砲台を要所に築造した。上関海峡の両端(室津・長島)の小高い丘にも砲台が築かれ、大砲が備え付けられた。
嘉永6年(1853)2月2日、吉田松陰が長崎へ向かう途中、室津側(日和山)の砲台を視察している。また、慶応2年(1866)6月6日、幕府側の軍艦『富士山丸』が室津の白浦方面を砲撃し、四境(しきょう)戦争の火蓋が切られたが、この砲撃に対して砲台からの反撃の記録はない。
現在、僅かに残る石垣が往時の面影を見ることができる。<上関台場案内板より>