文久3年(1863)、萩藩は新しく政治の中心と定めた山口を外敵から防衛する為、勝坂に関門を設置し、あわせて東西両側の高地に砲台を築きました。砲台に対しては平日から修理や補修を怠らず、常に弾丸を備えるよう注意することが指示されていました。
この付近の地は明治3年(1870)の脱隊騒動では最大の激戦地の一つとなりました。勝坂でも同年2月、右田毛利氏の兵が、徳山藩・岩国藩の兵と共に脱退兵と激しく戦っています。
その後、西側の砲台は早い時期に撤去されたようでその跡を留めませんが、東側の砲台跡は現在も石垣などが残っています。<現地案内板より>