慶長5年、毛利氏は関ヶ原の戦いに敗れた結果、中国地8ヶ国の領地を削られ、周防、長門(現在の山口県)2ヶ国36万9千余石の領主に移封されました。そこで輝元は居城として防府、山口、萩の3ヶ所を候補地として徳川幕府の意向を伺い、萩指月山麗に築城することになりました。慶長9年(1604)着工、同13年竣工。これより文久3年(1863)第13代藩主・敬親が藩府を山口に移転するまでの260年間、政治の中心地でありました。明治7年(1874)天守閣、居館を解体しました。萩城は平山城の形式に属し、阿武川デルタの根元を横断し外堀とし、その外を城下町とし内を城郭とした。外堀の内に三の丸を置き、中堀を掘って二の丸を設け、二の丸の内側に内掘をめぐらして本丸を指月山麓に構えた。さらに指月山頂には詰丸を設けている。<現地パンフレットより>