高松城とは…
高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正10年(1582)の中国の役の主戦場となった城跡として有名である。
城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築成された『土城』である。城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀を成していたのが窺われる。縄張りは、方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、更に三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態である。
本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。
中国役とは…
全国統一を目指した織田信長は西進を図り毛利方と対峙した。毛利方は備中境に境目七城(高松城、宮地山城、冠山城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城)を築き備えた。
織田軍の先鋒・羽柴秀吉は、天正10年(1582)に3万の軍勢をもって同国南東部に侵攻し、境目の城を次々に攻略した。最後に、攻め倦ていた高松城の周囲に約2.6kmの堤防を短期間(12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。籠城1ヶ月余を経て城兵が飢餓に陥った頃、本能寺の変が起きた。秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城主・清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。
本丸跡には明治末年に移転改葬された宗治の首塚があり、北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されている。
築堤跡は蛙ヶ鼻に現在も一部を現存している。
高松城水攻略史
今から約400年前の天正10年(1582)、織田信長の命を受け羽柴秀吉は、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略するとともに、3万の大軍をもって備中高松城を攻めた。秀吉は、高松城の城主・清水宗治に利をもって降伏するよう勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。高松城は深田や沼沢の中に囲まれた平城で、水面との比高が僅かに4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。秀吉は参謀・黒田官兵衛の献策に戦史にも稀な水攻を断行し、兵糧攻めにした。秀吉は、備前国主・宇喜多氏の家臣・千原九衛門勝則を奉行とし、3千mに及ぶ堤も僅か12日間で完成させた。時恰も梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、忽ちにして188ヘクタールの大湖水ができ、城は孤立した。
6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。秀吉はこれを固く秘めて毛利方の軍師・安国寺恵瓊を招き『今日中に和を結べば毛利から領土は取らない、宗治の首級だけで城兵の命は助ける』という条件で宗治を説かした。宗治は『主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明4日切腹する』と自刃を承諾した。
時に6月4日巳の刻(午前10時)湖上に船を漕ぎ出し、秀吉から贈られた酒肴で最後の宴を張り、誓願寺の曲舞を舞い、『浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して』と時世の歌を残して46歳を一期として見事自刃した。<現地案内板より>