福山城は、江戸幕府初代将軍の徳川家康の従兄弟にあたり『鬼日向』の異名を持つ猛将で知られた水野勝成により築城され、元和8年(1622)に完成しました。
西日本で最初に配置された譜代大名の水野勝成は石高10万石の大名でしたが、城の規模は30万石に匹敵する凡そ78,000坪(257,400㎡)を誇り、『西国の鎮衛』としての重要な任務を負った城郭といえます。
福山城の特徴の一つに、櫓の多いことがあります。20数基に及ぶ三重櫓・二重櫓、城郭で最も厳重な防衛施設といえる多聞櫓(城郭の石垣上につくる長屋状の櫓、多門櫓とも記す)が本丸と二之丸の東南部を除くほぼ四周を囲み、その総延長は291間余(570m)にも及びました。総延長300間近くになる多聞櫓は全国の城郭でも稀な規模であり、10万石の大名の居城としては破格の巨城であったといわれています。
明治6年(1873)に廃城し、殆どの櫓が取り壊され、更に昭和20年(1945)の戦災により天守閣や御湯殿などを焼失しました。
当時の櫓のうち現存するものは、⑦筋鉄御門、⑧伏見櫓(共に国重要文化財)、⑩鐘櫓(市重要文化財)です。
①天守閣、⑤月見櫓、⑥御湯殿は、昭和41年(1966)に福山市市制施行50周年記念事業として外観復元されたものです。
※櫓:城郭の要所に設けられ、防御や物見の役割を担う建物。通常の窓のほか、攻撃用の小さな開口を複数個所に設けています。<現地案内板より>