鏡山城は鏡城とも呼ばれ、山口の守護大名・大内氏の安芸国支配の拠点として築かれました。古文書等に初めてその名が見えるのは寛正6年(1465)頃と考えられる小早川煕平(ひろひら)宛細川勝元感状写(小早川家証文)ですが築城の時期は、出土遺物などから南北朝時代の後半から室町時代にかけてと考えられています。
鏡山城のある西条盆地は、室町時代には東西条と呼ばれ、南北朝時代の1360年代以降、大内氏の領地となってしまいました。東西条の範囲は大内氏の勢力伸長とともに拡大し、志和、高屋、造賀を除く賀茂郡域のほぼ全てと、旧豊田郡の安芸津や安芸郡の熊野にまで及ぶ広い範囲でした。
大内氏は守護代に相当する代官を鏡山城に置き、『東西条代官』または『東西条郡代』と呼びました。鏡山城は瀬戸内西部に勢力を持つ大内氏と瀬戸内東部地域に勢力を持つ細川管領家との境目に位置したことから、数多くの戦乱に巻き込まれました。中でも応仁・文明の乱(1467~1477)での鏡山城をめぐる戦いや、大永3年(1523)の出雲・尼子経久の鏡山城攻め等がよく知られています。特に大永3年の戦いは、多くの安芸国人を味方につけた尼子経久が鏡山城を攻め落とし、一躍大内氏に対抗できる勢力として、その存在感を大いに高めた戦いです。
反撃に出た大内氏は、大永5年(1525)頃には、東西条を奪還しますが、その拠点は、より峻嶮(しゅんけん)な盆地西方の杣(そま)城(曽場ヶ城跡)に移され、鏡山城は廃城となりました。
鏡山城跡の10mを越えてそそり立つ城壁(切岸)や山腹を囲繞(いじょう)する畝状竪堀群は見るものを圧倒します。随所に城を守る為の工夫が凝らされ、戦国時代初期の大内氏の築城技術の高さを示しています。平成10年1月14日、室町時代から戦国時代にかけての守護大名の地域支配の拠点城郭の好例として、国史跡に指定されました。<現地案内板より>