安土城は、織田信長公が天下統一を目標に天正4(1576)年1月17日、重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据え標高199mの安土山に築城させた平山城で、岐阜城よりも京に近い利便性があり、北陸・東海の要所であった。
 現在は、四方とも干拓により陸地となっているが、当時は琵琶湖の内湖(伊庭内湖・常楽湖)に囲まれ南方のみが開けた地形であった。
 築城から僅か3年後の天正7年5月、我が国で初めて天守閣をもつ安土城が一応の完成をみせた。ところが、天主完成から3年目の天正10年(1582)6月2日未明、中国毛利へ出陣途中の明智光秀の謀反により信長公は京都・本能寺で自刃(49歳)。混乱の中、6月15日に天主等を焼失、一夜のうちに落城してしまいます(原因は織田信雄が誤って焼き払ったという説や敗走する明智光秀軍による放火という説などが有名)。それでも、安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で信長の息子・信雄や孫の三法師(のちの秀信)が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピールします。しかし、天正12年の小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、翌年安土城は其の役目を終えて廃城となるのです。その後、江戸時代を通じて信長が城内に建てた聰見寺が其の菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくことになります。
 安土城跡は、天正15年(1926)に史蹟に、昭和27年(1952)に滋賀県蒲生郡安土町・東近江市(旧能登川町)に跨る約96万uが特別史跡に指定されました。
 昭和15・16年(1940・41)に天主跡と本丸跡の発掘調査と整備が行なわれ、昭和35年〜50年(1960〜75)にわたって主郭部の石垣修理が行なわれました。昭和57・58年には信長400回忌に合わせて城跡南面の平面整備が行なわれています。そして、平成元年(1989)度から安土城跡を将来にわたって永く保存し、広く活用することを目的として『特別史跡安土城跡調査整備事業』が20年計画で行なわれています。

 黒金門跡
 安土城中枢部への主要な入口の一つです。周囲の石垣は此れまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石の大きさに驚かれるでしょう。平成5年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが判りました。多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていました。壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が側近達と日常生活を送っていた安土城の正に中枢部となります。
 高く聳える天主を中心に本丸、二の丸、三の丸等の主要な郭で構成される此の一帯は、標高180mを超え、安土山では最も高いところにあります。東西180m、南北100mに及ぶ其の周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立(きつりつ)しています。高石垣の裾を幅2〜6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入口が数ヶ所設けられています。この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口(とどばしぐち)道・七曲口(ななまがりぐち)道からの入口なのです。
 安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。しかし、400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされます。
 平成7〜12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきました。此処から天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主へ向かうような感を覚えたのではないでしょうか。<現地案内板・パンフレットより>