1、位置と城史
 楽々前城は円山川支流の稲葉川右岸、佐田集落の北東、道場集落の南、標高307mの山上に所在し、山裾を取り巻いて流れる稲葉川を天然の堀として利用している。佐田・道場集落との比高は約240〜250mを測る。城域は長大で、東西約250m・南北約1000mを測る。
 垣屋氏(重教)は山名時氏に従って但馬に来住し、城崎郡奈佐庄の亀ヶ崎城主となったという(因幡垣屋系図)。しかし史料上確認できる垣屋氏の最初は、明徳の乱(明徳2年・1391)の時、京都二条大宮の合戦で山名時煕の危急を救出して討死した垣屋弾正(頼忠)である(「明徳記」)。応永8年(1401)には時煕の守護代垣屋遠江守(義遠)の存在が明らかである(蓮華寺過去帳)。義遠の子煕続は守護代として、応永25年(1418)10月には大岡寺に対して寺領安堵(垣屋煕続安堵状案「大岡寺文書」)、永享年間(1429〜1441)には日光院に対して二方郡八田(八太)庄(旧温泉町)の段銭を寄進している(垣屋煕続書状「日光院文書」)。また煕続は、嘉吉2年(1442)6月、新田庄(旧豊岡市)の代官職を獲得している(垣屋煕続代官職請文「九条家文書」)。ところで「因幡垣屋系図」では、楽々前城は垣屋隆国が応永年間(1394〜1427)に築城し、その子満成が跡を継いだというが、史料上は隆国も満成も確認できない(隆国を義遠、満成を煕続に比定する説もある)。何れにしても、垣屋氏の楽前庄入部は、但馬の南北朝争乱が事実上終結した貞治2年(1363)以降であろう。
 15世紀半ば以降の垣屋氏は守護代家としての地歩を固め、宗忠・豊遠・宗続らが楽々前城主であった。宗忠は、文明4年(1472)2月小佐郷(八鹿町)国衙(5町1反半)の反銭を日光院に寄進している(垣屋宗忠書下「日光院文書」)。豊遠は文明9年(1477)6月、宗続は文明12年(1480)、宗忠が寄進した小佐郷国衙の反銭を日光院に寄進している(垣屋豊遠書下、垣屋宗続書下、「日光院文書」)。
 しかし長享2年(1488)7月、山名政豊の播磨からの総撤退以後、但馬は守護家山名政豊と守護代家の垣屋氏が対立するという極めて緊迫した情勢となった。同年9月、飽く迄播磨進攻を主張する垣屋氏(続成・遠忠ら)を筆頭とする26人の国人が、政豊を廃し備後守俊豊(政豊の長男)を擁立しようとして、政豊・田公肥後守の立籠る木崎城(旧豊岡市)を包囲している(「蔭凉軒日録」)。因みに豊遠・宗続父子は、文明17年(1485)播磨蔭木城の戦いで戦死している。明応2年(1493)7月には、政豊は九日市の陣所を急襲され大損害を受けている。しかしその後、政豊は陣容を立直して大勝している(「蔭凉軒日録」)。この時俊豊は切腹したといわれるが、そうではなく脱出して但馬に潜伏したようである。現に俊豊は明応3年(1494)11月には、興長寺(竹野町)に対し寺領の段銭・諸公事を免除しているし(山名俊豊段銭・諸公事免除状「興長寺文書」)、同年12月には宗鏡寺殿(山名氏清)の菩提を弔う為に竹野庄内塩浜(天神後)5段を興長寺に寄進している(山名俊豊塩浜寄進状「興長寺文書」)。この俊豊を匿ったのが垣屋続成とされている。
 明応4年(1495)11月には、政豊が安田千代丸(安田続貞の子)に本領地(楽々南庄北分・知見分・井田分)を安堵している(「垣谷文書」)。、また同年12月には、垣屋続成が森山城での安田続貞の戦死を悼み、安田氏の本領地を安堵すると共に大浜庄を新給地として安田千代丸に安堵している(「垣谷文書」)。宿南保氏によれば、この2つの事実から次のことが分かるという。

@明応3年(1494)6月には、西ノ下谷(楽々前城周辺)に政豊・致豊勢が攻め入り、俊豊・垣屋続成勢との間に一大決戦があったこと。その戦闘で森山城に立籠もった続成方の安田続貞が戦死したこと。

Aしかしその翌年には、政豊と続成は和解したこと。その和解は「続成が俊豊追放に同意すること。その見返りとして、政豊が垣屋氏等俊豊に味方した国人等に恩給した所領は追認する」ということが条件であったであろうという。その結果、俊豊は備後へ走る。明応8年(1499)には政豊が没し、致豊が守護となる。
 ところが永正元年(1504)夏には、垣屋続成と山名致豊との抗争が再燃し、続成が致豊・田結庄豊朝の立籠る此隅山城(出石町)を攻めている。この時、出石神社に軍勢が乱入して火災が起こり、社壇・堂舎・仏像・経巻・末社諸神が焼失している(沙弥某出石神社修造勧進状・田結庄豊朝添状「神床文書」)。この戦いの結果は明らかではないが、永正2年(1505)6月、将軍義澄が致豊と続成に和解勧告をしているところから(「はるのよのゆめ」)、両者の対立は更に続いたようである。永正8年(1511)8月、垣屋続成は円通寺(竹野町)に対し壁書(法令)を定めており(円通寺壁書写「円通寺文書」)、致豊との和解によって守護代となったのであろう。永正9年(1512)には致豊は弟誠豊に守護職を譲渡し、続成は鶴ヶ峰城を築城して楽々前城から移っている(「因幡垣屋系図」)。
 永禄2年(1559)8月、垣屋光成は播磨の赤松則貞の但馬進攻に伴い、水生城下の善野寺野合戦で赤松軍を迎え撃っている(垣屋光成感状「河本文書」)。
 永禄12年(1569)8月、織田信長の命を受けた木下藤吉郎(羽柴秀吉)・坂井右近(政尚)が生野銀山を接収し、此隅山城・垣屋城など18城を攻略している。この時、田結庄城(鶴城)・観音寺城(鶴ヶ峰城)は攻略を免れているが、秀吉の相城(付城)に包囲されて近日中には落城するであろうことが記されている(朝山日乗書状安「益田家文書」)。この時、落城した「垣屋城」は楽々前城であろう。
 天正3年(1575)春には、山名祐豊は毛利方と「尼子氏掃討」を目的として同盟関係を結ぶ(芸但和睦)。同年11月には、八木豊信(八木城主)が芸但和睦に従って但馬の情勢を吉川元春に報告し、但馬出兵を懇請している(八木豊信書状「吉川家文書」)。その中で、宵田(宵田城)・西下(楽々前城・鶴ヶ峰城)の垣屋勢(光成ら)は毛利方の戦線を離脱し、尼子勢に応じ始めていることを報告している。
 天正6年(1578)4月には、毛利方の垣屋豊続は「宵田表」や「水生古城」において織田勢と戦い、一時的に勝利している。この戦いは宵田城や水生城周辺での合戦で、毛利方は垣屋豊続・古志重信・宇山久信ら、織田方は宵田城主(垣屋孝続)・伊藤与三左衛門らであった。伊藤与三左衛門は「宵田城城督」と記されている。城督とは城代のことで、天正6年段階では宵田城は完全に織田方の手に落ちていることになる(垣屋豊続書状「田結庄文書」、毛利輝元書状写「吉川家文書」、山名氏政感状「古志家文書」)。西ノ下(楽々前城主垣屋光成・恒総)の動向は明らかではないが、この時から織田方に与同し秀吉傘下に入ったものと思われる。
 天正8年(1580)6月、秀吉は因幡鳥取城攻めに際して、光成を岩経城(鳥取県岩美町)に配置し(羽柴秀吉書状「利生護国寺文書」)、また鳥取城攻略後の翌9年(1581)11月の知行割では、光成は浦富桐山城(鳥取県岩美町)の城主となっている(羽柴秀吉掟書「間島文書」)。

2、城の構造
 楽々前城は標高307mに位置する「南城」(本城)と、かなり離れて標高167mに位置する「北城」(砦)から構成されている。城は大規模な主郭をしっかりとした帯曲輪が取り巻き、そこから3方向に延びる尾根に数多くの規模の大きな曲輪群を配置し、堀切・竪堀や竪堀、畝状竪堀で防禦する縄張りである。城は大規模で、守護山名氏の本城此隅山城・有子山城を凌ぎ、特に大規模な畝状竪堀は圧巻である。

[南城]
 標高307mに位置する主郭1は東西51m・南北22mを測り、北側に曲輪9(20×10m)に下りる坂虎口を設けている。曲輪9には石が多数崩落しており、虎口には石積で固められていた可能性がある。主郭1周辺には曲輪10(幅4m)・曲輪11(20×29m)・曲輪12(18×20m)・曲輪13(28×18m)と曲輪2(20×26m)・曲輪3(30×16m)で構成する大規模な帯曲輪群を構築しており、主郭の防禦性を高めている。主郭1と帯曲輪群との段差は約5〜8mを測る。また、曲輪11・12・13には石積や石塁が見られる。特に曲輪12には高さ1m近い石積を構築している。裏込石を持つような石垣ではないので、取り敢えず戦国末期の垣屋氏のものと考えておきたい。尚、曲輪10には飛礫かと思われる拳大の石の集石が見られる。
 曲輪2の背後(南東)の尾根には、大規模な二重の堀切・竪堀で防禦されている。堀切Bは幅10m・深さ7m、竪堀ウ・エは幅6m・長さ25〜30mを測る。また、堀切Aは幅7m・深さ5m、竪堀ア・イは幅6.5〜7m・長さ30〜40mを測る。
 曲輪3の北側に延びる尾根(東尾根)には、階段状に曲輪4(37×19m)・曲輪5(22×16m)・曲輪6(21×21m)・曲輪7(17×17m)・曲輪8(10×7m)と竪堀オ・カ(幅4〜5m・長さ15m)を配置している。曲輪8を除いて何れもしっかりとした曲輪であり、曲輪間の段差は6〜7mを測る。特に曲輪3と曲輪4との段差は15m以上もあり、極めて堅固に造成されている。
 曲輪13の北側谷部には幅の狭い数段の曲輪が構築されている。東尾根と西尾根とを結ぶ通路とも成っており、曲輪14は33×17mを測る。
 西尾根の防禦は徹底しており、竪堀・畝状竪堀・土橋・堀切・高い切岸を駆使した堅固な縄張りとなっている。@竪堀テと竪堀トの間、A竪堀タと竪堀ツの間、B竪堀ソと竪堀セの間の3ヶ所には関門(城門)を設けていたと思われる。
 曲輪11から北側に延びる尾根(西尾根)には、階段状に曲輪15(18×10m)・曲輪16(20×16m)・曲輪17(41×10m)・曲輪18(22×8m)・曲輪19(14×10m)・曲輪20(7×6m)を構築している。小規模な曲輪19・曲輪20を除くと、他の曲輪は比較的規模も大きく切岸もしっかりしている。曲輪間の段差は約5〜8mを測る。
 細尾根の鞍部に造られた曲輪21(14×21m)には、西縁に高さ0.7mを測る削り残し土塁を構築している。
 次に、この城の縄張りの圧巻である、曲輪22・23・24と土橋、畝状竪堀との関係を見てみよう。曲輪22(15×38m)と曲輪23(13×19m)との段差は約1m程であるが、曲輪24(26×20m)と曲輪23との段差は約15mもある。また、曲輪24と土橋との段差は7〜8mを測る。この3つの曲輪群を8条から成る大規模な畝状竪堀と土橋、竪堀ソで防禦しようとしており、極めて傑出した縄張りとなっている。各竪堀の規模を記すと、竪堀キは幅6m・深さ3m・長さ18m、竪堀クは幅5m・深さ2.5m・長さ20m、竪堀ケは幅4m・深さ2.5m・長さ15m、竪堀コは幅8m・深さ3.5m・長さ17m、竪堀サは幅6m・深さ2.5m・長さ36m、竪堀シは幅3m・深さ1.5m・長さ30m、竪堀スは幅3m・深さ1.5m・長さ30m、竪堀セは幅6m・深さ4m・長さ43m、竪堀ソは幅6〜7m・深さ3m・長さ42mを測る。
 土橋から曲輪25の間は、粗自然地形である。曲輪25(17×15m)は幅3.5m・高さ0.6mの土塁で囲まれており、3条の竪堀で防禦されている。竪堀チは幅6m・長さ30m、竪堀ツは幅7m・長さ40m、竪堀タは幅7.5m・長さ39mを測り、曲輪25と竪堀ツとの段差は約8mを測る。また、竪堀テは幅5m・長さ10m、竪堀トは幅6m・長さ18mを測る。
 曲輪26〜31は、南側の曲輪群に比して比較的規模も小さく、切岸(段差)も1m内外で、古い遺構であろう。曲輪26は11×17m、曲輪27は11×19.5m、曲輪28は12×15m、曲輪29は14.4m×20mを測る。

[北城]
 北城は、南城の北端から約220mほど下がった標高167m地点に所在する。曲輪32の背後(南側)には土塁状の高まりがあるが、その南下には堀切はなく、西斜面に2条の竪堀を設けている。竪堀ナは幅2.5m・長さ18m、竪堀ニは幅2.5〜3m・長さ30mを測る。曲輪32(14×33m)の北東側には、曲輪33(19.5×50m)・曲輪34(15×21m)・曲輪35(8.5×11.6m)を構築している。各曲輪間の段差は約1〜2mと低い。
 曲輪35の更に北東下には、11段程の小曲輪(幅、長さ共10m内外)と浅い堀切を構築している。此れ等の遺構は、楽々前城の中で一番古いものであろう。

[西方寺跡]
 北城の西の山裾に「西方寺跡」がある。垣屋氏の菩提寺であったという。東西50m・南北40mを測る広大な削平地を中心にして、数段の平地がある。「鐘楼跡」と云われている所には、横穴式石室を内蔵する円墳も造成されている。西方寺跡からは瓦片は採集されていないので、瓦葺きの建物はなかった様である。建立時期は定かではないが、楽々前城の最前線の西方を守備する砦として造られたものと思われる。

3、まとめ
 楽々前城は、小規模な曲輪を断続的に構築したような南北朝期の遺構から、畝状竪堀をもつ戦国末期の遺構まで存在する。ここでは、各時期の縄張りと思われる遺構を摘出してみよう。
 南北朝期の遺構としては、北城の小曲輪群や主郭周辺の小曲輪群がある。この時期には、このような小規模曲輪群や浅い堀切が、北城だけでなく南城にも飛び飛びに造成されていたのではなかろうか。観応2年(1351)9月には、北朝群(今川頼貞・伊達朝綱ら)は八鹿から楽々前・国分寺に布陣し、府中や日置河原などで南朝軍と戦っている(伊達朝綱軍忠状「南禅寺文書」)。この時の楽々前城主は明らかではない。しかし、垣屋氏の楽々前城入部は貞治2年(1363)年以降と考えられ、観応2年当時の城主は垣屋氏でなく、北朝軍に与した楽前了一の可能性が高い。「但馬太田文」によれば、鎌倉末期の弘安8年(1285)には、楽前藤内兵衛入道了一は太多庄・比會寺・善雲寺の地頭を兼務しており、記載はないものの、おそらく三方庄・楽前庄の地頭でもあったものと思われる。
 室町期には、南城の古い曲輪(18〜21、8、14など)の様な、低い段差や中規模な堀切が、全山に存在していたであろう。時期的には、垣屋氏が楽前庄に入部した14世紀後半〜15世紀初頭であろう。
 戦国期の遺構としては、曲輪4〜7、曲輪15〜17、曲輪22〜25、曲輪32〜34等が考えられる。16世紀前半の山名氏との抗争期の改修であろうか。
 戦国末期の遺構としては、主郭と主郭周辺の帯曲輪・石積、主郭背後の二重の堀切・竪堀、曲輪25の土塁、竪堀群、畝状竪堀・土橋など。天正3〜6年の織豊勢力との抗争に備えて、主に竪堀、堀切・竪堀、畝状竪堀によって大改修したものと思われる。
 尚、楽々前城の居館については、縄張りから考えると、稲葉川を天然の堀とし、東側を北城、西側を西方寺で防禦した地域、輙ち伊原地区の字「市場」編辺(伊原地区〜稚児の滝)ではなかろうか。そのように考えると、楽々前城の登城ルートは「市場」から「堂坂」(北城から西方寺跡の間の谷)を通り、北城・南城に至るルートであろう。<豊岡市の城郭集成Uより>