| 1、位置と城史 中山比丘尼城は太田川右岸、赤野集落北西側、標高約170mの丘陵に所在する。城域は東西約70m・南北約150mを測る。集落との比高は約60mを測る。 城主は外垣右京進と伝承されている。外垣右京進については、如布神社の棟札に、大永2年(1522)「外垣右京進源恒光」が大破していた神社を再興した事が記されている(『資母村誌』)。 2、城の構造 城は、南北に延びる尾根筋に小曲輪群を配置し、各尾根筋に堀切・竪堀を構築して守備する縄張りである。 標高約170mに位置する主郭1は8×8.5mを測り、曲輪2は14.5×15mを測る。曲輪1・2で主郭部を構成し、その西〜南側にかけて幅4〜6.5mを測る帯曲輪が巡る。主郭1の東斜面の竪堀アは幅5m・長さ15mを測る。曲輪の南下の堀切Aは幅約11m・深さ約5mを測る。堀切Aの南側には、先端に幅広い土塁をもつ当城最大の曲輪(14×34m)を構築している。土塁は幅5m・高さ0.8mを測る。更に、曲輪3の西下には、堀切・竪堀と曲輪5を構築している。堀切Bは幅6m・深さ4m、竪堀イは幅3m・長さ10m、曲輪5は8×6mを測る。 曲輪2の北側には浅い堀切C(幅3m・深さ1.5m)と竪堀ウ(幅3m・長さ11m)を構築している。其処から北側には、尾根筋を削り込んだ土塁状の通路(約30m)があり、その土塁は曲輪5(9×6m)と連結されている。曲輪6は7.4×13.4mを測り、曲輪5との間に堀切D(幅4.5m・深さ2.5m)がある。また曲輪5の北東側には、堀切E(幅4.8m・深さ6m)と竪堀エ・オ(幅3m・長さ11〜12m)を構築している。 曲輪6から北西側に緩やかに下って曲輪7(9×9.5m)を設け、更に北側に堀切F(幅5.8m・深さ4m)と竪堀カ・キ(幅4m・長さ9〜20m)を構築している。また、曲輪6の西下の谷部には、曲輪8と曲輪9を設けている。土塁(11×4.5m、高さ0.7m)をもつ曲輪8は27.5×13m、曲輪9は23.5×9mを測る。曲輪8・9と曲輪6との段差は約4.5〜6mを測る。 3、まとめ 城は、南北朝〜室町初期に築城起源をもつ古い城を、戦国期に土塁や堀切・竪堀で改修した事が窺える。曲輪4・8・9を除いて全体的に曲輪は小規模で小国人クラスの城郭であろう。中山比丘尼城は、その南側の中山城ともに同じ丘陵上に所在し、中山城・愛宕山城・仏清城とも連携して中山地域の守備を担ったものであろう。 また、位置的に城は丹後(宮津)街道と丹後久美浜からの街道が交錯する交通の要衝にあり、それらのルートを押さえる城としての役割も担っていたものと思われる。<豊岡市の城郭集成Uより> |