| 1、位置と城史 妙楽寺城は妙楽寺集落西側、標高70mの見手山丘陵に所在し、集落との比高は約65m。城域は東西約400m、南北約600mに及ぶ大規模城郭である。 妙楽寺は高野山真言宗で、寺域から鎌倉期から室町期の経筒や密教法具(大錫杖頭・宝珠杵・火舎・銅鋺・台皿など計34点)、石造遺物(五輪塔・宝篋印塔)が出土している。「古義真言宗本末牒」によれば、以前(中世)には寺中に12院(不動院・遍照院・観音院・極楽院・弥勒院・地蔵院・大悲院・中性院・大智院・大乗院・心地院・遍智院)あったが、何れも廃絶し、寛政3年(1791)段階で本坊薬師院のみとなっていたという。 妙楽寺城に関する文献は数少ないが、城は明徳の乱(1391)に関連した山名一族の内紛の舞台として知られている。明徳元年(1390)5月、妙楽寺城に立籠もる山名時煕(常煕)・氏幸勢を山名氏清・満幸勢が攻撃し、同年10月には妙楽寺城が陥落し、時煕・氏幸らは敗走している(『妙楽寺文書』『南山編年録』)。また(天正7年ヵ)(1579)7月には、秀長の但馬進攻に備えるためか、山名氏政(有子山城主)が妙楽寺に対し「山下構塀三間」(有子山城下の溝塀ヵ)の普請を申し付けている(山名氏政書状『妙楽寺文書』)。 2、城の構造 曲輪配置は、丁度谷部に位置する妙楽寺を北・西・南から囲繞する様な形になっている。城は南北に延びる主尾根の鞍部(曲輪12)を境として、標高70nに位置する「北城」と標高69mに位置する「南城」に分けることができる。「北城」の主郭1は東西約25m、南北約160mと広いが、墓地の造成等によって改変されている。主郭1の北側は宅地造成によって削り取られているが、西尾根に2段(曲輪33等)、南東尾根に11段の曲輪を配置している。特に、尾根先端の曲輪7(60×25m)・曲輪9(22×25m)・曲輪10(26×32m)・曲輪11(19×41m)は規模が大きい。「南城」の主郭18は小規模(11×10m)であるが、主郭の北側に5段の曲輪、西側に1段の曲輪と小規模な堀切、東側に2段の曲輪(曲輪21=30×19m、曲輪22=26×12m)、南側に5段の小規模な曲輪を構築している(南側は但馬文教府の建設によって大きく破壊されている)。更に但馬文教府の東側の2つの尾根には、10段程のかなり規模の大きな曲輪(曲輪23=31×55m、曲輪24=25×37m、曲輪25=21×16m、曲輪28=24×33m、曲輪29=24×20m、曲輪32=30×17m)を配置している。戦国期特有の竪堀や畝状竪堀は、曲輪24と曲輪23の斜面に見られる。 尚、曲輪24は平成15年(2003)豊岡市の配水池建設に伴って発掘調査が実施され、6棟の掘立柱建物と14世紀後半〜15世紀初頭に至る多数の中世墓群(土壙墓・五輪塔・宝篋印塔・石仏等)が出土している。此等の中世墓群は、何れも戦国期と想定される曲輪の拡張造成によって埋められている。 3、まとめ 縄張りは、大規模な切岸のしっかりとした曲輪・竪堀・畝状竪堀等の存在から南北朝期から戦国期にかけての城郭化と思われる。また、南北朝期から室町期の山名氏の守護所(九日市の在所)が城の南南東約750mに所在することから、守護所の詰城(守護城)の一つと想定される。<豊岡市の城郭集成Tより> |