| 1、位置と城史 森山城は円山川支流知見川の左岸、森山集落の東側、標高108mの独立丘陵に所在し、集落との比高は約31mを測る。城域は東西約120m、南北約220mを測る。小佐谷(八鹿町)から知見越えを経て、西ノ下谷に入るルートを押さえる要衝に位置している。 城主は安田氏と云われる。延文元年(1356)12月、但馬を追われた北朝方の今川頼貞は、京都に在って安田氏義から但馬の情勢を聞き、一両日中に幕府の沙汰があることを伝え(今川頼貞書状「垣谷文書」)、此れより先の観応3年(1352)3月、安田氏義は足利尊氏から上総国一宮庄高根郷(千葉県長生村)を与えられている事から(足利尊氏袖判下文「垣谷文書」)、安田氏義は観応の擾乱の頃、北朝軍の今川頼貞に従って上総国から但馬に入国した人物も考えられる。 応安7年(1374)12月には、安田信義(氏義の子ヵ)は幕府から楽前南庄半分の内の三分の一の地頭職を沙汰されており(沙弥某遵行状「垣谷文書」)、安田氏が応安7年以前から楽前の地を領有し、恐らく山名時氏の時代に山名氏の傘下に入ったものと思われる。また応永9年(1402)8月、安田孫三郎(続貞)は山名時煕から楽前南庄西方の内の三分の一(北分)の地頭職を安堵されている(山名時煕書下案「垣谷文書」)。 嘉吉元年(1441)6月、安田続貞が実子がなかった為、千代王丸を養子と定め、続貞の本領(楽前南庄西方・大井料田)を譲り与えている(安田続貞譲状案「垣谷文書」)。 明応3年(1494)6月、山名政豊・致豊(政豊の次男)勢が西ノ下谷(楽々前城周辺)に攻め入り、山名俊豊(政豊の長男)・垣屋続成と戦っているが、この時垣屋方の続貞は戦死した。これに対し垣屋続成は明応4年(1495)12月、森山城での続貞の戦死を悼み、安田氏の本領を安堵すると共に大浜庄(旧豊岡市)領家方半分を新給地として安田千代丸に与えている(垣屋続成感状案「垣谷文書」)。明応4年11月には、山名政豊も千代丸に楽前南庄北分・知見分・井田分の所領を安堵しており(山名政豊書下案「垣谷文書」)、政豊と垣屋続成の和解が成立したと考えられている。 また永正13年(1515)5月、安田源次郎は山名致豊から恩給として美含郡丹生村(香住町)を給与されている(山名致豊知行宛行状「垣谷文書」)。以後、安田氏の動向は史料上では確認できない。 2、城の構造 森山城は、4段から成る主郭部を、斜面に構築した横堀や竪堀で防禦する縄張りである。 主郭部は曲輪1・曲輪2・曲輪3・曲輪4で構成されている。曲輪1は25×40mを測り、2段に仕切られている。曲輪2は尾根の鞍部を削平して造成されており17×23mを測る。曲輪3は15×30m、曲輪4は22×11mを測る。また、曲輪3と曲輪4には堀切側に高さ1〜1.5mを測る土塁が設けられている。 主郭部の西下の谷部には登城ルートが想定でき、4段の曲輪を構築している。曲輪5は16×10m、曲輪6は12.5×15m、曲輪7は9×10mを測る。主郭部の北・東・南斜面の7〜8m下には、主郭部を取り巻くように、北側に帯曲輪・横堀・竪堀、東側に帯曲輪・横堀・竪堀群、南側に深い堀切・竪堀を配置して主郭部の防禦強化を図っている。 主郭部の南側には、尾根の鞍部に小規模な3段の曲輪と浅い堀切を構築している。更にその南の尾根のピークには、南縁に土塁をもつ削平の不十分な大規模な曲輪11(東西20m・南北60m)を構築しており、その南下には堀切・竪堀を配置して南尾根からの攻撃に対処している。 3、まとめ 森山城は南北朝から室町期には、主郭部とその南尾根の曲輪を含む南北約200m位の範囲に、連郭式に曲輪を配置した縄張りであったであろう。その城を戦国初期に主郭部を中心に改修し、更に戦国末期に竪堀・横堀・土塁等で補強・改修してものと思われる。 戦国末期の改修は天正5〜7年頃が考えられる。その当時の城主は明らかではないが、小佐谷からの進攻を食い止める垣屋氏の重要な城郭として位置付けられていたものと推察される。<豊岡市の城郭集成Uより> |