| 1、位置と城史 此隅山城は円山川支流の出石川右岸、宮内集落北東、標高143.7mの独立丘陵に所在し、宮内集落との比高は約130mを測る。城域は東西約1200m・南北約750mと広大で、山下の「御屋敷」(居館)を両翼から包み込むような鶴翼の陣形を呈している。 此隅山城は守護大名山名氏の居館(守護所)と周知されているものの、その築城時期を史料によって確定することはできない。伝承では文中年間(1372〜75)山名時義が築城したと云うが(「但州発元記」「但州一覧集」)、定かではない。応安5年(1373)但馬守護職が山名師義に付与されているので(「祗園執行日記」)、師義築城の可能性もあるという。また此隅山城の麓に宗鏡寺(すきょうじ)跡が存在し、明徳の乱(明徳2・1391)で敗退した山名氏清の法号が「宗鏡寺殿」であるところから氏清築城説も考えられ、「此隅」の名称は最澄の著した「山家学生式」の「照于一隅、此則国宝」から採用したと考えると、南朝の後胤を奉じた氏清らしい着想ともいえると云う。氏清築城説を補完する事にはならないが、明徳元年(1390)9月但馬守護山名氏清は出石神社に対して、軍勢並びに甲乙人らの乱入狼藉を禁じると共に天下安全・武運長久の祈祷を命じている(山名氏清書下「出石神社文書」)。更に明徳の乱後に但馬守護に再任され、氏清の為に盛大な法要を行なった山名時熈の築城も考えられると云う。 此隅山城の初見は永正元年(1505)である。永正元年夏には守護山名致豊と楽々前城主・垣屋続成との抗争が再燃し、続成が致豊・田結庄豊朝の立て籠もる此隅山城を攻めている。この時出石神社に軍勢が乱入して火災が起こり、社壇・堂舎・仏像・経巻・末社諸神が焼失している。(田結庄豊朝添状・沙門某出石神社修造勧進状「神床文書」)。 天文9年(1540)には、 2、城の構造 此隅山城は最高所に位置する主郭を中心にして、そこから派生する総ての尾根に階段状に曲輪を構築する放射状連郭式の曲輪配置をしている所に特徴がある。 標高143.7mに位置する主郭Tは東西15m・南北42mを測り、曲輪2(11×24m)と曲輪3(17×10.5m)を連結した帯曲輪を構築している。主郭Tの東側斜面は急崖となっている。曲輪3の南側尾根には、曲輪4(16.5×22m)・曲輪5(23×13.6m)・曲輪6(28×16m)・曲輪7(13×24m)を飛び飛びに配置している。また曲輪3の南西尾根には11段の小曲輪と「千畳敷」と呼ばれる曲輪11(26×27m)を配置している。曲輪8は13×12m、曲輪9は15×9m、曲輪10は14×9m、曲輪12は35×13mを測る。 主郭1北東尾根には、曲輪13(18×9m)・曲輪14(18×15m)・曲輪15(15×26m)・曲輪16(15×29m)などの比較的規模の大きな曲輪とを構築している。主郭1と曲輪13間の段差は高く約10mあり、曲輪13と曲輪14間の段差は約9m、曲輪14と曲輪15間の段差は約5mを測る。曲輪16から尾根は3方向に分岐するが、何れも小規模古墳を削平したものである。 曲輪2の北側には段差の大きな曲輪17(20×18m)・曲輪18(28×19m)などを構築している。曲輪2・曲輪17間の段差は約9m、曲輪17と曲輪18間の段差は約13mを測る。 曲輪2に西側には8段程の曲輪が続く、曲輪19は8×17m、曲輪20は10×22m、曲輪21は12×38mを測り、曲輪20と曲輪21との段差は約11mと大きい。特に折れをもつ鉤状の土塁(幅2〜4m、高さ0.7m)をもつ曲輪21とその北斜面の堀切・竪掘・畝状竪掘は戦国末期の様相を呈し、北側の防禦を図ったものである。堀切Aは幅8m・深さ4m、竪掘アは幅2.4m・長さ10m、竪掘イは幅3m・長さ26m、竪掘ウは幅3m・長さ20mを測る。また曲輪21の西側には曲輪22(7×16m)・曲輪23(7×16.5m)・曲輪24(11.5×11.2m)が構築されている。なお、曲輪24から南西方向に延びる尾根には「御屋敷」を守備する堀切と数段の曲輪群が存在したが、昭和60年(1985)8月発掘調査が実施され、土取りを前提とした調査(御屋敷遺跡)であったため事実上消滅した。 曲輪24の尾根は西に向かって更に約860mほど延びているが、そこにも約30数段の古墳を削平した小曲輪群を構築している。 更に主郭の南西尾根先端部、千畳敷の南側には尾根を深い堀切で断切り、その前面に8段の曲輪を配置した砦(「宗鏡寺砦」)を構築している。堀切Bは幅8m・深さ3m、曲輪25は16×18m、曲輪26は30×35m、曲輪27は11×19mを測る。この砦は千畳敷と共に、その北側に位置する御屋敷を防禦する為に設けられたものと思われる。 3、まとめ 此隅山城の縄張は、大別して長さ10m内外の小さな曲輪、浅い堀切、低い段差をもつ曲輪が構築されている部分と、長さ20mを超える大きな曲輪、10m程もある高い段差をもつ曲輪、深い堀切、折れをもつ土塁、竪掘などが構築されている部分とに分かれる。前者は南北朝から室町期にかけて造成されたものと思われる。後者は主郭部周辺・竪掘・折れをもつ土塁・千畳敷・「宗鏡寺砦」等で、戦国末期の有子山城築城期に改修されたものと判断される。なお山麓には守護所と考えられる広大な「御屋敷」(東西約200m、南北約200m)があり、三段からなる平地や土塁をもつ「大手門」跡などの遺構が残存している。〜以下省略 <豊岡市の城郭集成Uより> 山名氏 山名氏は、室町幕府において侍所の長官に任ぜられる最も有力な大名の一人で、明徳の乱、応仁の乱の中心勢力として関与した。但馬は南北朝の初期以来山名氏の根拠地であり、南北朝期後半以降戦国期まで一貫して山名氏が守護の地位にあった。この山名氏の本国但馬における本城が此隅山城である。 現状 標高140mの此隅山山頂に長さ50m、幅10mの主郭を設け、これを中心に四方にのびる尾根上に削平による平坦地(くるわ)を多数設けている。石垣などを用いない、中世の山城の様相をよく残している。 城史 文中年間(1372-74)ころ山名師義(もろよし)により築城されたといわれている。山麓には宗鏡寺、願成寺、大手門、御屋敷などの地名が残り、曾て城下町が存在していたことを伝えている。また出石神社や総持寺にも山名に関する書状などが残っている。しかし永禄12年(1569)と天正8年(1580)に天下統一を狙う木下秀吉らの織田軍が但馬に侵攻し、此隅山城は廃城となった。<出石町教育委員会> |