1、位置と城史
 桐野城は円山川支流の出石川左岸、桐野集落北東、標高148m地点と標高100m地点の2ヶ所に所在する。山裾との比高は約120mと約70mを測る。
 城主は福富甲斐入道宗顕で、福富氏は糸井庄から出石に入部してきた人物と伝承されている。城主福富氏に関わるものかどうかは不詳であるが、天文4年(1535)「総持寺本尊奉加帳」(「本尊胎内文書」)の中に「福富甲斐入道・同長門守」の名がみえる(「総持寺文書」)。

2、城の構造
 桐野城は、標高148mに位置する「西城」(本城)と標高100mに位置する「東城」から成る。
 
〔西城〕(本城)
 城は主郭の背後(南側)は3条の堀切・竪堀で遮断し、主郭から2方向に延びる尾根に階段状に曲輪群を配置した縄張りである。城域は東西約130m・南北約250mを測る。
 主郭1は東西25m・南北39mを測り、2つに区画されている。南側に井戸らしき円形の窪地(3×2.8m)があり、礎石のような石も散見できる。また、曲輪3へ通じる虎口は石段を構築している。
 主郭1の南下約10mには小規模な曲輪2(11.5×5m)を設け、更に岩盤を掘り込んで3条の堀切・竪堀を構築している。掘切Aは幅4m、竪堀ア・イは幅2m・長さ10〜11m、堀切Bは幅3.5m、竪堀ウ・エは幅2.5m・長さ8〜9m。堀切Cは幅3m、竪堀は幅2m・長さ6m。
 主郭の西側尾根には大規模な2段の曲輪を設け、その北斜面に3段の帯曲輪、南斜面には小曲輪と2条の竪堀を構築して守備している。曲輪3は18×43mを測り、曲輪4から入る虎口は石積を施している。曲輪4は28×29mを測り、2つの坂虎口をもつ。主郭1と曲輪3mの段差は約2m、曲輪3と曲輪4との段差は約5mを測る。帯曲輪5は幅8m、帯曲輪6は幅6mを測る。また南斜面の竪堀カは幅2.5m、長さ16m、竪堀キは幅3m・長さ28mを測る。
 主郭1の北尾根には5段の曲輪を設けている。曲輪7は15×8.5m、曲輪8は14×10.5m、曲輪9は12×10m、曲輪10は13.5×12.5mを測る。主郭1と曲輪7との段差は約7m程あり、他の曲輪間の段差は約2〜3.5mを測る。
 曲輪10の北西尾根には、堀切・竪堀や比較的段差の低い(1.5〜3m)7段の曲輪を配置している。堀切Dは幅4m・深さ4m、竪堀ケ・コは幅2m・長さ6〜7mを測る。竪堀クは幅2.5m・長さ20mある。また曲輪11は11.5×4.5m、曲輪12は9×5m、曲輪13は8×8.8m、曲輪14は11×23.5m、曲輪15は11.5×8.7m、曲輪16は7.8×7.8mを測る。

東城
 東城は山頂に位置する主郭部の南側と北側を堀切・竪堀で防禦する縄張りである。山下の尾根突端には4段程の曲輪群を構築している。
 山頂の中程に土塁(幅2m・高さ1.3〜1.5m)と櫓台1(4.5〜8m)があり、その南側に曲輪2(11×27.3m)、北側に曲輪3(12.3×35m)を設け、全体で主郭部を構成している。南側の堀切Aは幅12.5m・深さ8〜9m、竪堀アは幅4m・長さ20m、竪堀イは幅4m・長さ18m、北側の堀切Bは幅8m・深さ6〜7m、竪堀ウは幅2.5m・長さ10m、竪堀エは幅2.8m・長さ14mを測る。
 山下の曲輪4は東西38m・南北40mを測る。曲輪5は20×20.5mあり、西側の帯曲輪は幅9mある。曲輪6は20×9mを測る。曲輪4と曲輪5・曲輪6との段差は約4〜5mある。東縁を土塁で囲まれた曲輪7は18×14.5mを測り、曲輪4との段差は約6mを測る(曲輪7は土取りの跡かも知れない)。

3、まとめ
 桐野西城(本城)は北尾根の曲輪群と南尾根の曲輪が小規模で、南北朝期から室町期の様相をしている。主郭を含む大規模な3つの曲輪は切岸もしっかりしており、戦国期に改修されたものであろう。更に戦国末期に堀切・竪堀や竪堀によって補強されている事が窺える。
 東城は小規模曲輪群の存在から南北朝期に築城起源を有するものの、山頂の主郭部は本城と同じく、戦国末期に土塁や堀切・竪堀による改修を受けている。東城山下の曲輪群は山上の主郭部とは縄張りが大きく異なり、居館的な空間が想定できる。
 桐野城は出石川に突き出すような位置に所在し、西側約2.2kmの距離にある有子山城や東側の矢根城を容易に見通すことができる。出石から但東へ至る京街道(宮津街道)の要衝にあり、有子山城の支城として重要視されたものと推察される。<豊岡市の城郭集成Uより>