| 1、位置と城史 中郷朝日城は円山川右岸、中郷集落東側の尾根突端、標高約50mに位置する。集落との比高は約44m程ある。城域は東西約150m、南北約90mを測る。現在、城郭の中心郭には須賀神社が鎮座している。 2、城の構造 城は主郭と副郭に帯曲輪を巡らせ、堀切・竪堀や畝状竪堀で防禦する縄張りである。 城は尾根を深い堀切(幅14.5m・深さ7m)・竪堀(幅5〜6m、長さ20m)で切断して城域を確保しているが、その背後にも細長い曲輪2(16m×49.7m)と幅5〜6mを測る腰曲輪を構築している。主郭は曲輪1であるが、9×10.5mと小規模である。主郭の西側には約6〜7mの切岸を設け、その下に中心部と思われる曲輪3(東西20.5m・南北11.5m)を構築している。曲輪3には、曲輪の両端に削残し状の土塁が残存している。主郭1と曲輪3は、南側に幅5.5mの帯曲輪(曲輪3との段差=6〜7m)と3条の畝状竪堀(幅3m、長さ12m)、北側に3段の帯曲輪(曲輪5・6=幅5〜7m、曲輪7・8=幅4.5〜8m、曲輪9=幅8〜10m)と4条の畝状竪堀(大きい竪堀は幅4m、長さ38m)を構築して防禦を固めている。 城は平成12年(2000)、上水道貯水タンク建設に伴う発掘調査が実施された。 遺物は、土師器皿・中国製白磁、瀬戸・美濃焼の天目碗、越前焼甕、土錘等が出土している。土師器皿は手づくね製品が大半で、京都系土師器とは異なり、在地タイプのものである。陶磁器の出土量は少なく、貯蔵具についても越前焼の甕を除くと殆ど見るべ き物がなかった。しかし土錘の量は700点弱という大量出土で、各帯曲輪(段状遺構)からの出土であった。 段状遺構の特徴について、山上雅弘氏は次のように指摘している。 @上・中・下の3段構造で、横方向に通路を挟んで並ぶ傾向であるが、選地に意図性は認め難い。 A段状遺構の選地は尾根筋を避け、北斜面に立地する。此れは、円山川前面を避ける軍事的側面と古くからの山城における駐屯地の選地意識を継承した立地と考えられる。 B段状構造は大半が同じ場所に同規模のものが建てられ、数度の改修が行われ、長期に亘って維持されている。この事から、同じ集団が同質の構造を持ちながら山城を維持していたと考えられる。 C建物は掘立柱構造で、下段では比較的大型のものが建つ。 D段状構造周辺の切岸造成は意識されず、防禦は元来の急傾斜地形に頼る。 3、まとめ 縄張の特徴は、中心郭(郭1・3)を幅の狭い帯曲輪(段状遺構)と竪堀・畝状竪堀で防禦している点にあり、最終段階は戦国末期の改修の所産である。しかし、段状遺構や小規模曲輪等を考慮すれば、築城起源は南北朝期にあり、主郭周辺は室町〜戦国初期の改修が想定される。 位置的には、城は江原から出石に至るルートにおける「繋ぎの城」であると共に、中筋地区の南を抑える城としての役割を担っていたものと思われる。 山上雅弘氏は、段状遺構が漁網(土錘)の保管場所であるとして、山城の利用に関して「漁網の存在は、段状遺構ごとに各々が漁網を所有していた証拠で、城内に漁網を必要とする人々が多数いた事になり、籠城者は漁などの生業に直接関わった家族の単位で駐屯していた事を示している。つまり、朝日城の段状遺構には下層の人々が駐屯したが、それらの人々は川漁師を生業とする様な人々である事が推測される。」と述べている。 また土錘の出土状況に集中地点が数多く見られる事から、この場所は漁網の保管場所で、漁網を?棄した跡とみられ、各段状遺構で慌ただしく人々が立ち去った事を推測させるものである。廃城時の状況を窺う貴重な資料である、と云う(『豊岡市中郷朝日遺跡』豊岡市教育委員会1975)。興味深い所見である。<豊岡市の城郭集成Tより> |