1、位置と城史
 荒木城は出石川支流の菅川左岸、荒木集落北東、標高228mの山頂に位置する。集落との比高は約200mある。城域は広く、東西約580m・南北約480mを測る。
 荒木城主は機屋(旗屋)氏と思われる。「川崎文書」は、荒木の須義神社(菅荘八幡宮)の旧神主家に伝わる文書である。この中の旗屋氏に関する史料を追ってみよう。
 応安4年(1371)4月、末次六郎入道沙弥道了は重代相伝の地「貞行名」の名主職を養子機屋十郎座衛門政教に譲渡している(末次道了田畠譲状)。
 永和元年(1375)12月、沙弥明尊は「宗友名」を機屋十郎政則に打渡している(沙弥明尊打渡状)。
「打渡」とは訴訟によって争われた所領を守護が正当な知行人に渡すことで、この場合は機屋氏が「宗友名」の知行人として勝訴した事を意味している。
 此れを受けてであろうか、永和4年(1371)9月には預所祐宗は「宗友名」を機屋十郎政則に宛行っている(預所祐宗名田宛行状)。
 康暦元年(1379)6月、貞宗(政則の義父ヵ)は「宗友名」を猶子(養子)機屋十郎政則に宛行っている(貞宗名田宛行状)。
 明徳4年(1393)5月、沙弥法名道清(政則ヵ)は「宗友名」を嫡子孫三郎に譲渡している(沙弥道名田譲状)。
 大永7年(1527)12月、たゝ部(機屋ヵ)しん(新)二郎は菅荘領家損地分の指出を行なっている(菅荘領家損地分指出)。
 また、天文4年(1535)「総持寺本尊勧進奉加帳」の中に、「畑谷彦左衛門」「畑谷新左衛門」の名がみえる(「総持寺文書」)。
 以上のように、史料からは機屋(畑谷)氏は南北朝期から戦国期まで存続していた事が確認でき、一応荒木城主は機屋(旗屋)氏と考えておきたい。

2、城の構造
 荒木城は城の中心部である「主郭部」と「南砦」、「北砦」に分かれる。特に、出石地域では数少ない畝状竪堀をもつ縄張りである。

「主郭部」
 主郭1は東西14m・南北30mを測り、南西隅に櫓台状の高まりを持つ。主郭1の約3.5m下には幅3〜4.5mの帯曲輪が全周する。帯曲輪2の北西約4.5m下には、当城最大の曲輪3(18×30m)を構築している。特徴的なのは、主郭周辺の斜面に巡らされた竪堀群である。主郭西側は小曲輪群と竪堀ア(幅3m・長さ33m)、南西尾根は曲輪4(12×6m)・曲輪5(17×5.4m)と竪堀イ(幅2.5m・長さ15m)、南から東斜面は7条から成る畝状竪堀で防禦されている。竪堀ウは幅2m・長さ20m、竪堀エは幅2.2m・15m、竪堀オは幅2.5m・長さ14m、竪堀カは幅2.5m・長さ22m、竪堀キは幅2.5m・長さ21m、竪堀クは幅2.5m・長さ35m、竪堀ケは幅2.5m・長さ28mを測る。

「南砦」
 中心郭6(17×12m)の背後の尾根鞍部には堀切は構築されていない。曲輪6の南側に6段程の小曲輪、東側に11段程の小曲輪を配置している。因みに曲輪7は11.5×11.5m、曲輪8は12×14mを測り、各曲輪間の段差は約2〜4mを測るに過ぎない。南砦の遺構には竪堀や土塁はなく、室町期の築城であろう。

「北砦」
 曲輪9は23×9m、曲輪10は20×12m、曲輪11は21×10m、曲輪12は12×70mを測るが、何れも切岸が甘く古い要素をもっている。南北朝〜戦国初期の築造であろう。
 
3、まとめ
 荒木城の遺構は、大凡南北朝期の北砦、室町期の南砦、戦国期の主郭部に分けて考える事ができよう。特に主郭部は戦国末期(天正3〜5年頃)に畝状竪堀による改修が顕著で、織豊勢力の進攻に備えて構築したものと思われる。
 位置的に荒木城は、浅間峠から出石に入る街道を抑える軍事的要衝に所在し、対岸の丸山城とも連携して機能させようとしたものと推察される。<豊岡市の城郭集成Uより>