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=尾高城とは=
尾高城は、別名「泉山城」とも呼ばれ、大山山麓西伯耆一円を見下ろす標高40mの段丘先端に築かれた中世城郭です。山陰道、日野往来との結節点に位置し、米子城ができるまでの西伯耆の交通、軍事の拠点でした。
南北約400m、東西約300mの範囲に広がる城域には、当時の情景を覗わせる堀や土塁が良好な状態で残っています。城内には北側から二の丸、本丸、中の丸、天神丸、背後に越ノ前郭、南大首郭など9つの郭が配置されています。また、発掘調査によって石垣や石塁が発見され、土塁の城から石垣の城への様相の移り変わりと、城主の変遷が考古学的な手法によって明らかになったことが評価され、令和5年度(2023年)に国の史跡に指定されました。
=尾高城の歴史=
尾高城の始まりは定かではありませんが、鎌倉時代に遡るとされ、室町時代には山名氏の一族である幸松氏が居城したと伝わります。
大永4年(1524)、領土拡大を進める出雲の尼子経久による伯耆侵攻により幸松氏は国外退去を余儀なくされ、尾高城も尼子氏の支配するところになりました。その後、毛利氏の山陰侵攻により、幸松氏は再び尾高城を奪還するも間もなく病死したことから毛利家臣の杉原盛重が城主となり、毛利・吉川氏の伯耆支配の中心となり活躍しました。尾高城はこの時代、戦国城郭として整備されたと考えられます。天正9年(1581)、盛重の死後、杉原氏内紛を経て尾高城は吉川広家の管下において西伯耆の拠点とされた可能性が高いと考えられています。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、伯耆国の領主として駿府から入国した中村一忠が米子城が完成するまでの間、尾高城に入城したと考えられています。その後、尾高城は米子城の支城として組み込まれますが、一国一城令により廃城となったと推定され、約400年間の歴史を閉じました。<現地配布パンフレットより>