| 能島城は、中世に瀬戸内海で活躍した村上海賊の一つ、能島村上氏の活動拠点です。小さな島全体をお城にした「海城」と呼ばれており、村上海賊の城跡では唯一の国指定史跡です。 本丸 まるで船折瀬戸を臨むように小さな掘立柱建物が建っていた痕跡がありました。「井楼(せいろう)」と云われる物見櫓と考えられます。二之丸、三之丸、矢櫃でもこれに似た遺構が発見されました。 本丸では素焼き(かわらけ)の破片が1万点以上も出土しています。かわらけの主な使い方は、灯明皿と酒器。武家の儀礼や宴会の場所であったと考えられます。 二之丸 何回も建て替えられた掘立柱建物が発見されました。二之丸は主に居住空間として機能したのでしょう。 三之丸 「倉」と考えられる大型の礎石建物跡が発見されました。高級な陶磁器や備前焼の大きな甕などが沢山発見されています。通行料として徴収した品などを納めた倉だったのでしょうか。 東南出丸 かわらけ28枚と中国銭82枚が発見されました。 「地しずめ」などと呼ばれる「おまつり」の痕跡と考えられ、近くに特別な建物があったと推測されます。 地しずめ遺構は、本丸、二之丸でも発見されました。 南部平坦地 今から450年程前に完成した中世の埋立地です。石の列や柱穴が発見されました。荷揚げや漁具の手入れなど多目的の作業ヤードとして使われたと考えられます。埋立土から鍋や釜などの生活道具が多く出土しました。 “日本最大の海賊”能島村上氏 村上海賊は、14世紀中頃から瀬戸内海で活躍した一族である。後世には三島村上氏などと呼ばれ、能島・来島・因島に本拠を置いた三家から成り、連携と離反を繰り返しつつも、互いに強い同族意識を持っていた。 彼らは、海の難所である芸予諸島で育まれた海上機動力を背景に戦国時代になると、瀬戸内海の広い海域を支配し、周辺の軍事・政治や経済の動向をも左右した。来島城を本拠とする来島村上氏は、伊予国守護の河野氏の重臣として活動した。因島村上氏は、周防国の大内氏に仕え、のちに中国地方の派遣を握った毛利氏の有力な海の勢力となった。そしてここ宮窪に本拠を構えた能島村上氏が三家の中で最も独立性が強いとされ、特に村上武吉の時代には、毛利氏・大内氏・三好氏・河野氏といった周辺の戦国大名たちと、時に友好関係、時に敵対・緊張関係となりながらも、独自の姿勢を貫いた。日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスは、能島村上氏を“日本最大の海賊”と称した。 武吉および息子の元吉・景親の時代に全盛を謳歌する能島村上氏は、西は北部九州から東は塩飽(しわく)諸島に至る海上交通を掌握した。平時には瀬戸内海の水先案内、海上警固、海上運輸など、海の安全や交易・流通を担う重要な役割を果たした。戦時には船舶を巧みに操り、「焙烙火矢(ほうろくひや)」など火薬を用いた戦闘を得意とした。また、茶や香を嗜み、連歌を詠む文化人でもあった。 ところで昨今では、彼らを「村上水軍」ではなく「村上海賊」と呼ぶことが多い。「水軍」は江戸時代以降に用いられた呼称であり、明治から昭和初期には、彼らを近代海軍の前身として評価する見方が強かったため、このように呼ばれていた。しかし「水軍」では、彼らの多様な活動を表現できない為、最近では当時の古文書などに見える「海賊」という呼称を用いることが多くなってきている。 一般に「海賊」と聞けば、理不尽に船を襲い金品を略奪する無法者、所謂「パイレーツ」がイメージされるかもしれない。しかし、展示室をめぐるとき、「海賊」と呼ばれた人々が必ずしもマイナスイメージで語られなかった時代があったことに気付くだろう。 <現地配布パンフレットより> |