轟城は、垣屋隆国の三男・国時が築城した(「因幡垣屋系図」)というが、文献的には確認できない。宿南保氏の研究によれば、轟城主は豊茂→豊種→誠長→聖忠→宗時→豊続→豊実となっているが、資料的に確認できない人名が多く、現在までのところ確かなのは駿河守豊続だけであるという。『高畑垣屋文書』によって文献的に裏付けられる駿河守家は、豊保→豊続→知継である。 

 轟城は大谷川と竹野川を天然の堀として利用し、標高147.1mに位置する主郭aを中心にして、三方向に延びる尾根に連郭式に曲輪を配置している。秋葉神社が鎮座している主郭aは、南北45m、東西25mを測り、かなりしっかりとした幅広い坂虎口をもつ。主郭aの西南側は急斜面を切岸として利用し、北・西側に大規模な曲輪b(22×37m)と曲輪c(44×26m)で構成する帯曲輪を造って防禦している。主郭と帯曲輪との段差は7〜8mを測る。
 曲輪dは29×18m、曲輪eは43×10mを測る。曲輪fは17×7mを測り、規模も小さい。曲輪eの北側eの北側尾根には堀切・竪堀4(幅2.5×3m・深さ2m・長さ20m)、曲輪fの北東尾根には堀切・竪堀5(幅2.5×3m・深さ1m・長さ20m)の中に4条の畝状竪堀gが構築されている。
 主郭aの南東尾根には、浅い堀切の先に3段の細長い曲輪(曲輪h=8×27m、曲輪i=15×23m)が構築されており、曲輪iには高さ1.2m・幅5mほどの土塁がある。更に曲輪iの南東尾根には3つの堀切・竪堀(6=幅4〜5m・深さ2m・長さ20m、7=幅3m・深さ2m・長さ16〜20m、8=幅4m・深さ2m・長さ16m)で防禦している。
 曲輪bの北西尾根には曲輪j(11×34m)と3つの堀切・竪堀1・2・3を構築して、防禦を固めている。特に堀切・竪堀3は大規模で、堀切幅10m・深さ3×14mを測る。堀切・竪堀1は、堀切の深さ5m・幅7m、竪堀の幅5m・深さ2.5〜3m・長さ15mを測る。また曲輪iには堀切側(7m・高さ2m)となかほどに土塁が構築されている。
 曲輪f・曲輪i・曲輪h・曲輪jは規模も小さく、造りも甘い。
 特徴的なのは、各尾根の先端にU字型竪堀(堀切+竪堀)を造り城域を設定すると同時に、尾根筋の防禦効果を高めていることである。更に竪堀gのようにU字形竪堀の中に放射状に4本の竪堀を造り、竪堀6本で構成する畝状竪堀を造っている。

 轟城の築城および改修の時期は、3期あろう。
<豊岡市の城郭集成Tより>