1、位置と城史
 中村城は円山川支流の出石川と奥山川に挟まれた、標高220mの山上に位置している。中村集落との比高は約200mを測る。城域は広く、東西約80m・南北約800mを測る。
 地元では、中村城の所在する山を「七年山」と呼んでいる。「七年山城」の由来は、天正2年(1574)の有子山城築城から7年間、有子山城と運命を共にしたからであるという。有子山城は天正8年4月初め、羽柴秀長の第2次但馬攻めで落城した。

2、城の構造
 中村城は、標高220m地点を主郭とする「南城」(下の城)と標高134m地点を中心とする「北城」(上の城)の2つの城で構成される。

[南城](上の城)
 最高所の標高220mに位置する主郭1は、東西25m、南北46mを測る大規模な曲輪である。主郭1の周囲には、曲輪2(22×12m)・曲輪4(15×8m)・曲輪5(11×6m)から成る帯曲輪を巡らせている。曲輪3は21×9m、曲輪6は20×12m、東斜面の曲輪7は幅4〜5mを測る。
 特に強固な防禦を誇っているのは主郭の北側である。曲輪8(13×12m)・曲輪9(9.6×8m)から土塁をもつ曲輪4に入るには、横堀(幅3m・深さ2m)の西側に構築された土橋を通り、さらに一折れして土塁間の坂虎口を通らなければならない。しかも土橋・横堀の東西には、竪掘ア(幅2.5m、長さ16m)・竪掘イ(幅2.5m、長さ22m)で斜面を遮断している。曲輪4と曲輪8との段差は約7mを測る。北方からの攻撃に対し、主郭1の防禦強化を図った縄張である。
 曲輪10は東西20m・南北70mを測る大規模な曲輪であり、幅4〜7mの帯曲輪が取り巻いている。曲輪10と曲輪11の間には、大規模な土橋・竪掘が構築されている。竪堀ウは幅7〜8m・長さ100m以上、竪掘エは幅7m・長さ30mを測る。
 曲輪11は東西25m・南北25mを測り、曲輪の影は明らかに横矢掛かりを意識した造りとなっている。曲輪11の東側は折れをもつ土塁と横堀(幅3.5m)、西側は竪掘オ(幅4.5m・長さ22m)で防禦しようとしている。また曲輪11の背後(南側)には、少し離れて土塁・竪掘を構築して尾根筋の攻撃に備えている。竪掘カは幅3.5m・長さ27.5m、竪掘キは幅3.5m〜4m・長さ38mを測る。
 曲輪9の北側には、曲輪12(10×10m)に二重の帯曲輪を巡らせ、更に2方向に小曲輪郡を構築している。

[北城](下の城)
 北城は尾根を二重の土橋・竪堀で遮断し、その北側に3段の小曲輪と細長い2つの曲輪を設けている。低い土塁をもつ曲輪1は14×16m、曲輪2は9×8m、曲輪3は6×8mを測る。竪掘アは幅3m・長さ15〜20m、竪掘ウは幅3m・長さ13×15mを測る。
 曲輪4は13×62m、曲輪5は16.5m×40mを測り、曲輪5は帯曲輪・小曲輪郡と2条の竪掘で守備されている。竪掘オは幅2.5m・長さ20m、竪掘カは幅3.5m・長さ40mを測る。

3、まとめ
 中村城は、小規模曲輪群の存在から南北朝期に築城起源を有し、戦国期に南城の曲輪(1・10・11など)を中心に曲輪の拡張と帯曲輪によって改修されたものと思われる。その時北城の曲輪拡張(曲輪4・5)も行われた。更に戦国末期には、南北両城とも竪堀、土橋・竪堀による改修を行っている。しかし、土橋・横堀・土塁をもつ坂虎口は天正8年以降織豊勢力(有子山城主)の改修ではなかろうか。
 何れにしても、中村城はその規模も大きく、出石川を挟んで有子山城と対をなす城郭で、出石の防禦の要となる山名氏の拠点城郭と考えることができる。<豊岡市の城郭集成Uより>