1、位置と城址
 耕地谷城は円山川左岸、九日市集落西側、標高約26mの尾根突端に所在する。山裾の集落との比高は約22mを測る。城域は東西約30m、南北約45mを測る。
 遺跡は平成15年(2003)兵庫県教育委員会が国道426号豊岡バイパス道路改築工事に伴って発掘調査を行なった。遺跡では4基の古墳群が確認されたが、遺構や遺物の分析から古墳を利用した山城遺構であることが判明した。(『耕地谷古墳群・耕地谷城跡』兵庫県教育委員会2010)。

2、城の構造
 城は、尾根先端に4つの曲輪を並べた単純な縄張りである。
 曲輪は何れも小規模なもので、曲輪1は7.3×6m、曲輪2は6.5×12.5m、曲輪3は6×6m、曲輪4は6.5×6m、曲輪5(段状遺構)は10×6mを測る。
 報告書に依れば、「城は尾根上の古墳墳丘を改変し、墳頂部を平坦面(曲輪)、背後の周濠(溝)部分を堀切として利用している」という。但し、「その堀切は幅約3m、深さ約1m」と、通常の山城の堀切と比べると小規模である。

3.まとめ
 報告書によれば、時期が判明する遺物は土師器皿・土師器鍋・画質擂鉢で、16世紀初頭から前半に位置付けられるという。
また城の性格としては、小規模で防御性が薄く、村人が一時的に避難する「逃げ城」としている。
 但馬における戦国期城郭の場合、遺構として竪掘や堀切・竪掘の導入が一般的であるが、当城の場合は全く見られない。しかし、戦国期城郭でもこのような事例が存在することを確認しておこう。<豊岡市の城郭集成Tより>


=平坦部・斜面平坦面(段状遺構)について=
 当城跡の特徴として、尾根斜面に小規模な竪穴住居跡の施設が営まれている点がある。此れは通常、段状遺構と呼ばれ、本稿では平坦部及び斜面平坦面と呼称した。
 以下、当館(兵庫県立考古博物館)山上雅弘氏による当城跡に対する指摘・評価を参考に、当城跡に伴う各施設について述べておく。
 段状遺構は尾根斜面に構築されるもので、通常尾根側をコの字に削り前方に土砂を盛りだして構築する。この平坦面=段状遺構は一見弥生時代の高地性集落に見られる段状遺構に酷似するものであるが、近年中世山城において多数見つかってきている。豊岡市内では中之郷にある朝日城跡、出石町鳥居にある鳥居城跡で、存在が明らかになってきている。
 朝日城は尾根上に発達した防禦施設(堀切・竪堀等)を持つ本格的な城郭であるが、北斜面の箇所は郭構造を持たず、6〜7ヶ所の段状遺構で構成されている。構築時期は天正年間頃で、段状遺構もこの頃に構築されていると考えられる。
 当城跡は時期的には、少し遡ると考えられる。南北の斜面側の裾周囲には排水溝と思われる壁溝を伴った平坦面が検出されており、谷側部分はやはり盛土によって拡張されている。
 明確な遺構は南北斜面、特に南斜面から検出されている。南斜面には排水溝を備えた平坦部が複数検出されている。配置から見れば、南平坦部1はその排水溝が下方の斜面平坦面群を避けるように流末が伸びており、同時期に存在したと判断できる。また、南平坦部1の下層にある平坦部2・3は切り合うが、共に排水溝が斜面平坦面群の上に伸びており、同時期に存在しなかったと判断できる。
 輙ち、南平坦部3→2→1・斜面平坦面群の順に少なくとも3時期に亘って平坦部が形成されている。当城跡は、極短時間のうちに使用されたものではなく、数度に亘り改築され、使用されたと考えられるのである。

=堀切・尾根上の平坦面について=
 当城跡は、尾根上の古墳墳丘を改変し、墳頂部を平坦面(本項では東・中央・西郭とした)、背後の周濠部分を堀切として利用している。
 特に2号墳・3号墳間の堀切部は古墳築造当初の周濠と考えるには規模が大きく、築城に伴い開鑿(かいさく)を行なった可能性が高い。但し、幅約3.0m・深さ約1mと、通常の山城の堀切と比べ小規模な点は否めない。
 また、この堀切の南側末端が段状遺構と切りあっている事から、遺構が2時期以上の時期幅を持っている事が分かる。

=耕地谷城跡の性格について=
 当城跡は16世紀前半期に数度の改築が行なわれた小規模な堀切と、斜面地の平坦部=段状遺構が特徴的な、小規模な城跡である事が判明した。
 〜中略〜
 近年、藤木久志氏・井原今朝男氏などの文献分野からの研究によって、戦国時代には戦乱を避ける目的、或いは近隣諸勢力との軋轢を解消する手段として村の農民層も山城を構築する事が明らかにされてきている。しかし、実際には村人が構築した城郭に現状ではまだまだ不明な部分が多い。
 その中で、県内では豊岡市の朝日城跡など村人・村と密接な関わりのあると考えられる城郭が、近年幾つか明らかにされてきている。此れ等は本来構築される筈の郭構造を持たず、周囲に段状遺構を配置している事が多く、一方で防禦施設の構築には消極的な事例が認められる。この様な事例の一つとして、丹波市春日町の火山城跡が挙げられる。火山城跡は古墳を改変し、周囲に段状遺構を構築するが背後の堀切は伴わない城跡である。
 当城跡についても火山城跡と同じく防禦性が薄く、朝日城跡と同じく段状遺構が特徴的である。
 以上の点から、当城跡は村人の逃げ城として使用された簡易な山城の可能性が考えられ、16世紀前半を中心に、幾度か改修を加えながら使用されたと推測される。
<豊岡市の城郭集成T、耕地谷古墳群・耕地谷城跡 ‐国道426号交通円滑化事業に伴う埋蔵文化財調査報告書‐ より>