鳥羽城は、九鬼嘉隆が文禄3(1594)年に築き、その後寛永10(1633)年に内藤忠重が入封してから二ノ丸、三ノ丸を増設し、近せ城郭として体裁が整ったとされています。鳥羽城は、水軍の城らしく大手門(水門)が海側に設けられ、四方を海で囲まれた全国的にもまれな特徴をもつ『海城』でした。ここの場所は右下の絵図の三ノ丸があった場所になります。
鳥羽城に関する資料としては、延宝8(1680)年に内藤家が断絶となった際の記録に、天守三重とあり、規模は5間×6間で、高さ約19.5mであったとされ、天守下には蔵もありました。
天守閣や本丸があった場所は現在、旧鳥羽小学校運動場になっており、建物などは残っていませんが、石垣の一部が相橋と本丸西側などに残っています。城跡からは九鬼氏、内藤氏、稲垣氏の家紋が入った瓦が採集されています。<現地案内板より>